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3:回想Ⅱ 閉ざされた面会

 窓ガラスを打つ雨音が、次第に激しい狂乱の打楽器へと変貌を遂げていた。

 館の外では嵐が吹き荒れ、湖面を狂ったように叩きつけているはずだ。孤島と下界を繋ぐ僅かな渡船の手立てすら霧と波の底へと呑み込まれ、この『鐘楼館』は名実ともに、世界から完全に孤立した脱出不能の密室と化していた。

 館内に鳴り響く無数の時計の不協和音。カチカチと狂った歩調で時を刻む歯車の音に交じり、どこか遠くでからくりの動く重厚な低音が、床板を通じて足裏へ伝わってくる。


「……探偵様、ブル様がお待ちでございます」


 老執事ジャッロが、銀髪の頭を垂れて静かにロッソへ告げた。

 案内されたのは、館の二階奥深くに位置する重厚な二重扉の前であった。ブルの私室兼書斎。この館の心臓部であり、歪んだ時間の集積地でもある場所。


「ユキ、君はジャッロと共に大広間で待っていなさい。すぐ済む」

「……ロッソ、気を付けて。この扉の奥、空気がすごく重い」


 ユキは不安そうに白い袖口を握り締め、警告するように小さく呟いた。

 ロッソは無言で頷き、自らその重い木製扉を押し開いた。


 書斎の内部は、異様な光景であった。

 壁という壁を埋め尽くすのは、羊皮紙の古書や図面、そして見たこともない精巧な真鍮製の測天儀やからくり装置の数々。中央の巨大な書斎デスクの向こうに、青いベルベットの衣装を纏った男——館主ブルが、肘を突いて座していた。

 デスクの上には、蓋の開いた小箱と、不気味な黒ずんだ液体を満たした小さな硝子瓶が置かれている。ロッソが踏み込むと同時に、ブルは素早い動作でその小箱を引き出しの奥へと隠した。


「失礼するよ、ブル殿。挨拶にしては少々殺風景な歓迎だね」


 ロッソは足音を静かに忍ばせ、冷ややかな視線を室内に巡らせながらデスクの前へ歩み寄った。

 ブルの表情には、一見たわわな威厳が漂っていたが、その目の下には深い黒ずんだ隈がこびりつき、呼吸は微かに浅く乱れていた。男は手首に巻き付けた真鍮製の精巧な懐中時計を、指先で神経質になぞり続けている。


「……何の用だ、女探偵。私と貴様との間に、交わす言葉など存在しないはずだが」


 ブルの声は硬く、拒絶の壁を露骨に築いていた。


「用がなければ来ないさ。老執事ジャッロから『不穏な予兆』について相談を受けてね。君が甥であるあの少年——ヴェルデを、何らかの悲惨な取引の『道具』として利用しようとしているのではないか、と」

「ふん……老いぼれの戯言か。私の館で私が何を企もうと、身内の少年をどう扱おうと、外部の探偵にとやかく言われる筋合いはない」


 ブルは吐き捨てるように言い、鼻で冷笑した。だが、その瞳の奥に宿る焦燥は隠しきれていなかった。


「本当に戯言かな?」

 ロッソは芝居がかった手つきでコートの裾を払い、デスクの上のわずかな変化を見逃さず観察した。


「君のその服……青い衣装は実に豪奢だが、その目の下の隈と震える指先は何を物語っている? 一族の威光を誇りながら、君自身が何者かの影に怯え、狂気に追いつめられているように見えるがね。……例えば、市場に奇妙な技術や過剰な資本を撒き散らしている『ネロ商会』の影に、だ」


『ネロ商会』——その言葉がロッソの唇から滑り出た瞬間、ブルの全身が激しく跳ね上がった。


「な……ッ!?」


 ブルの顔から一瞬にして血の気が引き、青ざめた肌が死人のような色へと変色する。男はデスクを勢いよく叩いて立ち上がった。手首の懐中時計が激しく揺れ、金属音を立てる。


「貴様……どこでその名を知った! 一体何者だ……!?」

「ただの通りすがりの探偵だよ。不純物たる『死』と、歴史を汚す狂いを忌み嫌うね」


 ロッソの瞳に、氷のように冴え渡る論理の光が宿る。


「君がヴェルデを道具として差し出そうとしている相手も、君を追いつめ、その異常な焦燥を植え付けた者も、根は同じなのではないかね? ネロ商会、あるいはその背後にいる黒幕……。君は自らの保身のために、実の甥の命すら差し出そうとしているのではないか」


「黙れ! 黙れ黙れ黙れ!!」


 ブルは狂乱したように怒声を上げ、胸を激しく上下させた。その瞳に浮かんでいたのは怒りではなく、底知れぬ恐怖——抗いようのない「黒き威光」に対する絶対的な服従と怯えであった。


「何も知らんくせに知ったような口を利くのではない! あのお方の恐ろしさを……ネロ様の目線から逃れる術など、この世界のどこにも存在しないのだ! 探偵……貴様らがこの館に足を踏み入れたこと自体が、私にとっての破滅なのだ!」


 ブルは不吉な言葉を叫び散らすと、荒い息を吐きながらデスクの上の書類を乱雑に掻き集めた。


「出ていけ! 今すぐこの部屋から失せろ! 面会は終わりだ!」

「不穏な答えだね。だが、君が何かを『決意』したことだけはよく分かったよ」


 ロッソは追及を深追いせず、冷ややかに唇を歪めた。

 これ以上の対話は無用であった。ブルの焦燥と恐怖はすでに限界点に達しており、正常な思考能力を失っている。


「……では失礼するよ、館主ブル殿。夜の嵐で頭を冷やされるといい」


 ロッソが背を向け、重い扉のノブに手をかけた時であった。

 背後から、ブルの低く、地の底から絞り出すような不吉な呟きが届いた。


「……探偵よ。貴様は自分が賢いと思っているのだろうな。だが……この鐘楼館からは、誰一人として生きて逃れることはできんのだ。貴様も……私もな」


 ロッソは振り返らず、静かに扉を開けて書斎を後にした。


 廊下に出ると、待機していた老執事ジャッロとユキが寄ってきた。

ジャッロはロッソの表情から事態の深刻さを察したのか、苦々しい顔で深く頭を下げた。


「探偵様……ブル様は……」

「会話の成り立つ状態ではないね。恐怖と焦燥で正気を失っている。……だがジャッロ、あの部屋の空気は不自然だ。男の覚悟が、破滅的な方向へと傾いているのを感じる」


 ロッソは両手袋を締め直し、薄暗い廊下の先を見つめた。

 一階の大広間へと続く吹き抜けから、緑の上着を纏った少年ヴェルデが、相変わらず無機質な瞳でこちらを見上げているのが見えた。


 館主ブルの常軌を逸した恐怖。

 老執事ジャッロの悲痛な救済依頼。

そして、物陰から静かに事態を観察する少年ヴェルデ。


 歯車が噛み合い、破滅の狂言劇がその幕を開けようとしていた。

この直後、施錠された密室の中で凄惨なる『事件』が牙をむくことを、この時間軸のロッソはまだ知る由もなかった。


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