2:回想Ⅰ 歪んだ館
記憶は、激しい雨音とともに数日前の過去へさかのぼる。
その日、空を覆い尽くしていたのは、墨を流し込んだかのような不吉な鉛色の暗雲であった。
広大な湖のほぼ中央、絶壁に囲まれた小さな孤島にそびえ立つ『鐘楼館』。古びた黒ずんだ石造りの外壁は、湿った湖風に晒されて苔むし、中央に天を突くように立つ巨大な鐘楼が、まるで世界を見下ろす一本の不気味な骨のように刺さっていた。
ロッソとユキは、小舟の老船夫に渡し賃を握らせ、濡れた石畳の桟橋へ足を降ろした。
背後で舟が湖の霧の中へ消えていく。その瞬間、この館と下界を繋ぐ唯一の細糸が切断されたことを、ロッソは皮膚に刺さる冷気によって察知していた。
「……何とも趣味の悪い建築だね。建築家の正気を疑いたくなるよ」
ロッソは濡れた朱いコートの襟を立て、館を見上げた。
館のあちこちから、重々しく不揃いな金属音が響いている。ゴト、ギチリ、と歯車が噛み合う湿った音が、風に乗って耳腔を叩く。この館全体が、巨大なひとつの時計仕掛けの内部であるかのようだった。
「ロッソ……ここ、空気が歪んでいる気がする」
脇に立つユキが、白く細い指先で自身の胸元を静かに押さえた。
境界の能力を持つユキの感覚は、この地に滞留する不自然な違和感を過剰に敏感に捉えていた。この世界に存在するはずのない歪んだ技術——ネロ商会が撒き散らしてきた「異物」の残り香が、この館の空気には濃密に充満しているのだ。
「ああ、感じ取れるよ。だが、まずは依頼人の出迎えを受けるとしよう」
館の重厚な鉄の扉が、軋んだ悲鳴を上げて内側から開いた。
出迎えたのは、背の曲がった老執事であった。銀髪を几帳面に切り揃え、古びた黒の服に身を包んだ老人は、深々とロッソたちにお辞儀をした。
「……ようこそお越しくださいました、探偵様。私がこの館で執事をつとめております、ジャッロでございます」
「遠路はるばる船を漕がせた甲斐があることを祈るよ、ジャッロ。君の手紙にあった『不穏な予兆』について、詳しく話を聞かせてもらおうか」
老執事ジャッロは周囲を怯えたように見回すと、声を極限まで潜めて二人を館内へと招き入れた。
薄暗い廊下を進む間も、無数の掛け時計や振り子がカチカチと不協和音を奏でている。それらは刻んでいる時が微妙に異なっており、聞く者の均衡感覚を緩やかに狂わせていく。
「探偵様……手紙にも書きました通り、この館には近いうちに恐ろしい血の不条理が訪れます。……館主であるブル様が、悲惨な運命に縛られたあの子……ヴェルデ様を、惨めな実験道具として売り渡そうと画策しておられるのです」
ジャッロの声は、絶望と罪悪感に震えていた。
「ブル様は一族の威光を傘に着ておりますが、その実、闇の奥底に座すネロ様の恐怖に狂っておられます。自らの保身のためなら、実の甥であるヴェルデ様すら惜しげもなく切り捨てるお方です。……そして恐ろしいことに、追いつめられたヴェルデ様もまた、自暴自棄の果てに、この館の者たちや、ここを訪れる探偵様方をも巻き込む恐ろしい企みを秘めている……」
「ほう……」
ロッソは歩みを止めず、薄い笑みを浮かべた。
「私を巻き込む暴走、ね。私がただの探偵ならば、首を突っ込まずに引き返せと助言するところだが……あいにく、私は不純物たる『死』がこの手で裁けぬ形で生じるのを看過できなくてね。君の依頼、確かに引き受けたよ。で、その館主と少年はどこにいる?」
老執事が案内したのは、館の中央に位置する吹き抜けの大広間であった。
高い天井からは重々しい硝子の照明器具が吊り下げられ、その下に二人の人物がたたずんでいた。
ひとりは、豪奢な青いベルベットの衣装を纏った男——館主ブル。
濃い髭を生やし、鷹のような鋭い目つきをした中年の男であったが、その瞳の奥には隠しきれない焦燥と、何者かに対する絶対的な恐怖の影がへばりついていた。手首には精巧極まる真鍮製の懐中時計が握られ、男はそれを狂ったように何度も確かめている。
「……何者だ、ブルの館に足を踏み入れる不躾な客は」
ブルは低い声で威嚇するようにロッソを睨みつけた。その色彩の名に恥じぬ青い衣装は、冷酷さと偏執的な自尊心を雄弁に物語っている。
「名乗るほどの者でもないさ。ただの流浪の探偵ロッソだ」
「探偵だと……? ふん、うっとうしい羽虫が」
ブルは不快そうに鼻を鳴らし、懐中時計をポケットへ突っ込んだ。
「この館に貴様らのような探偵の出番などない。嵐が来る前にさっさと失せろ。……さもなければ、この鐘楼館の深い湖底へ沈むことになるぞ」
ブルの言葉には、あからさまな敵意と警戒が込められていた。ネロ商会の影、そして一族の歴史を狂わせる探偵の存在を、この男もまた本能的に恐れているのだ。
だが、ロッソの視線は館主ブルを通り越し、その背後に佇む少年の姿へ注がれていた。
少年の名は、ヴェルデ。
緑の仕立ての良い上着を身に纏い、影のようにブルの背後にたたずむその少年は、ロッソたちと視線が合っても、表情ひとつ変えなかった。
歳格好は十四、五といったところだろうか。しかし、その瞳には少年らしい生気や感情が一切存在しなかった。まるで、精巧に作られた蝋人形——いや、自らの未来と存在価値を諦めきった者だけが宿す、果てしない「虚無」そのものであった。
(……ヴェルデという少年、か)
ロッソは胸の内で、冷ややかな推理の糸を手繰り始めた。
館主ブルから漂う暴力的な威圧感と保身の焦燥。それとは対照的な、少年ヴェルデの無機質なまでの静寂。
老執事ジャッロは「ブルがヴェルデを道具として売り渡そうとし、ヴェルデが自暴自棄の暴走を企んでいる」と語った。目の前の構図は、いかにも権力を持つ冷酷な館主が被害者であり悪人、哀れな少年が追い詰められた悲劇の当事者という見取り図を提示している。
だが——ロッソの頭脳は、その単純な図式に小さな違和感を覚えていた。
少年ヴェルデの瞳に宿る虚無。それは自暴自棄の狂気ではなく、もっと深く、冷たく研ぎ澄まされた『何か』を静かに見据えている人間の瞳であったからだ。
外では、雷鳴が遠くでゴロゴロと鳴り響き始めていた。
孤立した鐘楼館を呑み込む嵐が、刻一刻と近づいていた。
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