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1:地下牢の探偵

 冷ややかな水滴が石畳を打つ音が、暗闇の中で規則正しく鼓膜を揺らしていた。

 地下特有の粘りつくような湿気と、古びた鉄と黴の交ざり合った臭気が、喉の奥を不快に撫で上げる。地上の暴風雨が館全体を揺らす重低音が、ぶ厚い岩盤を透かして微かに響いてくる。

 湖の孤島に佇む『鐘楼館』。その最深部に位置する地下牢の中央で、ロッソは冷たい石壁に背を預けていた。


「……くく、なんとも不格好な結末だね。探偵が、殺害容疑者として牢獄の床を温める羽目になるとは」


 芝居がかった自嘲の言葉とともに、ロッソは手首を動かした。

 ジャリ、と重々しい鉄の音が静寂を割る。

 両手首を固く繋ぎ止める太い鉄枷。冷徹なまでの完璧主義を誇り、あらゆる「不純物(死)」をその論理をもって排除してきた女性探偵ロッソは、いまや一人の見すぼらしい罪人として拘束されていた。

 鮮やかな朱のコートは泥と埃で汚れ、薄暗い燭台の揺らめく光を受けて、まるで乾いた血痕のような暗黒色を帯びている。


「……ロッソ」


 すぐ隣から、蚊の泣くような小さな声が聞こえた。

 身を縮こまらせ、膝を抱えて座り込んでいるのは、白き少女ユキであった。

降り積もる雪のように無垢でミステリアスな佇まいはそのままに、いまはその華奢な身体を小さく震わせている。薄布のような白い衣の裾は地下の泥に汚れ、その瞳には底知れぬ不安と、この館の空気がもたらす異様な圧迫感が影を落としていた。


「怯えることはないよ、ユキ。首を跳ねられるのは私だ。君の美しい首筋に、冷たい鉄の刃が触れることはない」

「そういう問題じゃない……。どうして、こんなことに……」


 ユキの声が、湿った空気のなかへ消えていく。

 どうして、こんなことに——その問いは、いまこの地下牢に満ちている最大の不条理そのものであった。


 明朝、太陽が東の湖面を紅く染め上げると同時に、探偵ロッソの処刑が執り行われる。

 裁判も、弁明の機会すら与えられないまま、この館の人間たちの手によって、私刑にも等しい即座の死刑が決定していた。罪状は——『鐘楼館』の館主に対する、陰惨なる密室毒殺罪。


「私があの男……館主ブルを殺した、か」


 ロッソは呟き、冷たい壁に頭を預けたまま天井を仰いだ。

 現場の状況は、あからさまなまでに完璧であった。完璧すぎると言ってもいい。


 嵐の密室。

 施錠された鐘楼の間の内部で、猛毒を煽り、血を吐いて倒れていた館主ブル。

 扉を破って踏み込んだ使用人たちの前で、息も絶え絶えのブルが最後に残した苦悶の指さしと、絶命間際の告発。

 『ロッソ……奴が……毒を……』

 そして、直前にブルと二人きりで面会していた事実と、ロッソの外套のポケットから発見された、ブルを死に至らしめたものと同型の小瓶。


 何ひとつとして、隙が存在しなかった。

 いかなる陪審員であれ、いかなる法官であれ、その場に揃えられた「真実」を見れば、ロッソが館主ブルを毒殺した不道徳な殺人犯であると断定せざるを得ない。

 事象の不整合を見抜き、事実誤認を暴き、解決することを得意とするロッソの論理すら、そのあまりにも強固で、過剰なまでの状況証拠の前には沈黙を余儀なくされていた。


「逃れようのない告発……完璧な密室……不純物を憎むこの私自身が、不純物を撒き散らした当事者として処刑される」


 ロッソの口元に、冷ややかに歪んだ笑みが浮かぶ。

 だが、その瞳の奥には、氷よりも冷たい思考の火が灯っていた。


(……おかしい。何もかもが、あまりにも『美しすぎる』)


 ロッソの頭脳が、囚われの身でありながらも高速で演算を繰り広げていた。

 自分はブルを殺していない。毒薬の瓶など持っていなかったし、ブルを死に至らしめる動機など存在しない。

 ならば、答えはひとつしかない。

 何者かが、ロッソを探偵としてではなく『殺人犯』として抹殺するために、この壮大な密室劇を書き上げたのだ。


(刃や毒で私を直接殺害するのではなく、私に密室殺人の容疑を負わせ、この館の人間たちの手で殺させる……。なぜだ? なぜ、そのような回りくどい真似をする?)


 探偵の論理を封殺する、最も陰湿で完璧な手法。

 もしや、犯人の目的は私の命そのものではなく、私が「時間遡行探偵」として歴史の狂いを解決するその『権利』そのものを奪うことにあるのではないか。


「……ロッソ、時間が……」


 ユキが震える小指で、ロッソの袖口を引いた。

 地下牢の鉄格子の向こう、暗い階段の上から、カツン、カツン、と重々しい靴音が降りてくるのが聞こえた。松明の赤黒い光が石壁を舐め、長い影を牢の中へと伸ばしてくる。

処刑の準備を進める執事か、それとも探偵の惨めな末路を確かめに来た館の住人か。

いずれにせよ、ロッソに残された時間はごく僅かであった。このまま夜が明ければ、過去へ「一言」を送る時間遡行の演算を行う隙すら与えられず、ロッソの命は断ち切られる。


(落ち着け、ロッソ。思考を止めるな)


 ロッソは深く息を吐き出し、胸の内で論理の糸を手繰り寄せた。

犯人は誰だ? どのような手口で、あの密室と死者の告発を作り上げた?

そして何より——『なぜ、そこまでして私を犯人に仕立て上げなければならなかったのか』。


 三重の謎。Who、How、そしてWhy。

その解を見つけ出すためには、この不条理な結末に至るまでの時計の針を、巻き戻さなければならない。


 嵐が館を包み込む前の、あの始まりの時間へ。

 老執事からの密かな救済依頼の手紙を受け取り、自分とユキが、この時空の歪む孤島『鐘楼館』へ足を踏み入れた、あの数日前のあの日へと——。


感想いただけると狂喜乱舞しますので感想くださいください

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