プロローグ:起算の覚醒
静寂は、無数の歯車が噛み合う不快な金属音によって支配されていた。
石造りの頑強な壁面に、足の踏み場もなく据え付けられた真鍮製の振り子時計、星々の運行を模した幾重もの測天儀、そして果てしない過去から積み上げられた羊皮紙の書物群。それらが放つ古びた紙と油の匂いが、密閉された空間に重たく充満している。
ネロ商会の盟主であり、闇の奥底で世界の糸を引く男——ネロは、重厚な黒檀の椅子に深く腰を掛け、手元の硝子杯に注がれた深紅の液体を静かに揺らしていた。
この部屋の名は「起算の間」。
表の栄華からは完全に切り離された、歴史の針を刻む真の起点であった。
「……またしても、因果が捻じ曲げられたか」
ネロの低く冷ややかな呟きが、石壁に反響して消える。
彼の前に置かれた一枚の羊皮紙。そこに記されていたのは、商会の広大な情報網を通じて国境の地から届いた、ごく短い報告であった。
あの大地で燃え上がるはずだった破滅の火種。ひとたび解き放たれれば巨大な混沌となって世界を呑み込むはずだった計画が、不自然なほど静かに、一滴の血も流さずに消し止められたという。
綿密に組み上げられたはずの針の進みが、途中でぷつりと途絶えていた。
「たった一人の探偵……そして、あの白い娘か」
ネロは細い指先でグラスの縁をなぞった。
ネロ一族の血に宿る、時を越える不条理な力。そして、彼らが長い年月を費やして追い求める深遠なる目的を知る者は、この世界に数えるほどしか存在しない。
他者の命や歴史の平穏など、彼らにとっては一片の価値もなかった。すべては巡り合わせの果てに手繰り寄せるべき、ひとつの結末に過ぎないのだから。
だが——その完璧であるはずの試みに、決して存在してはならない「歪み」が紛れ込んだ。
赤き衣を纏い、不純物たる死を憎み、冷徹な論理思考をもって事象の狂いを解き明かす女性探偵、ロッソ。
そして何より、その探偵の傍らに佇み、境界として存在する白き少女、ユキ。
二人が出会い、事象の理を揺るがし始めた瞬間から、ネロの描く未来の盤面に、微かな、しかし無視しえぬ陰りが生じ始めていた。
「羽虫が……いつまで私の盤面を荒らしまわる気だ」
ネロの瞳に、薄暗い燭台の光が冷たく宿る。
最初は取るに足らない不確定要素に過ぎないと思っていた。だが、あの国境での計画すら無に帰せしめた以上、もはや静観することは許されない。二人は明確な「障害」であった。
「……お呼びでしょうか、ネロ様」
部屋の最深部、影が濃く溜まる物陰から、かすかな足音が響いた。
姿を現したのは、静かに佇むひとつの影であった。
余計な感情を削ぎ落とされた、ガラス玉のような瞳。身に纏う衣服は闇の濃淡に溶け込み、その全身からは生命の温もりではなく、道具として精錬された冷酷な静寂が漂っている。
ネロはその影を見下ろした。
一族の血を引く者でありながら、自らの意思を持つことを許されず、ただ与えられた命令を果たすためだけに存在する影。
「報告は受けているな。あの地での企ては潰えた」
「……はい。探偵の存在が、障壁となったと」
影の声には、一切の起伏がなかった。恐怖も、焦燥も、怒りすら存在しない。ただ、課せられた役割を果たすためだけに存在する、死んだ声であった。
「あの探偵の厄介な点は、ただの刃や毒では殺せぬところにある」
ネロは硝子杯をテーブルへ静かに置いた。
「襲撃も暗殺も、あの女は違和感となって解き明かし、未然にそれを無効化する。……ならば、崩すべきは奴の論理そのものだ。探偵としての足場を奪い、過去へと意識を飛ばす隙すら与えず、確定した『現実』の牢獄へ繋ぎ止めねばならん」
ネロは羊皮紙の束から、別の古びた地図を指先で叩いた。
そこに描かれているのは、時空の歪みが集積する湖畔の孤島に佇む館——『鐘楼館』。
そこには、一族の血を引きながらも衰退し、いまや館主として居座る男がいた。その男はネロの威光と恐怖に怯え、自らの保身のために暗い焦燥を募らせている男であった。
ネロの命に、影は静かに頭を下げた。
「鐘楼館へ向かえ。あの館を完全な密室とし、不条理なる殺害の舞台を整えよ。探偵ロッソを逃れようのない罠にはめ込み、自ら手を下すことなく、館の人間たちの手で処刑・抹殺させるのだ。……探偵を、密室殺人の『犯人』に仕立て上げろ」
「……御意のままに」
影は短く応えると、一瞬ののちに気配を消し、暗闇の奥へと溶けていった。
ネロはふっと冷ややかな息を吐き出し、再び無数の時計が刻む不協和音へ耳を傾けた。
「探偵ロッソ……お前の傲慢な論理が、自らの身を焼き尽くす不条理にどこまで耐えられるか、試してみるとしよう」
時を刻む真鍮の歯車が、ギチリと不吉な音を立てて、破滅への針を進めた。
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