エピローグ:追跡の系譜
長い夜が明け、国境の連峰を覆っていた灰色の濃霧が、朝景の透き通るような光によって静かに洗われていく。
要塞『オルテン砦』の黒ずんだ石壁を叩いていた凍てつく北風は、幾分かその鋭さを和らげていた。松明の煙と異臭が漂っていた中庭には、澄み渡る山の空気が満ち、兵士たちの顔から不気味な熱狂と殺気はきれいに姿を消していた。
本丸の階梯を下りてきたアルベリック将軍と老副官バルテルは、晴れやかな、しかしどこか晴れ切らない複雑な表情でロッソたちの前へと歩み寄った。
「隣国の殿軍が完全に国境線を越え、撤退を完了したとの報告が入った」
将軍は低く、しかし万感を込めた声で告げた。
「我が国の大使との間で、無条件撤退の和睦協定が正式に批准された。……半世紀に及んだこの要塞での不毛な血の流し合いは、ついに終わったのだ」
「重畳だね、アルベリック将軍」
ロッソは朱い外套の襟を正し、薄い笑みを浮かべた。
「過剰な『力』に目を奪われた愚か者たちも、これで少しは頭が冷えたことだろう」
将軍は深く息を吐き、静かに視線を落とした。
「ヴァルターは要塞の謹慎部屋へ収監した。奴は己の犯そうとした過ちの重さに打ちのめされ、ただ黙して許しを乞うている。……若い兵士たちの血気を抑えきれなかったのは、私自身の言葉足らずゆえでもある。不必要な汚名を着て耐えることが誠意だと思い込んでいた、私の傲慢だったのかもしれん」
「将軍……」
涙痕の残る老副官バルテルが、痛切な眼差しで主を見つめる。第一時間軸で主の血の海を目撃した老兵の心には、いま眼前に広がる「生きている世界」の尊さが、何物にも代えがたい救いとして刻まれているのだろう。
「さて、私たちの仕事はここまでだ。……と言いたいところだがね」
ロッソは言葉を切り、西城壁の石造り砲門室へと足を向けた。将軍とバルテル副官も、不審そうにその後を追う。
狭く冷たい石室の中央には、今なおあの大砲が鎮座していた。
朝の光が狭い射撃孔から差し込み、不自然なまでに滑らかな鋳鉄の砲身を無機質に照らし出している。
ロッソは膝を折り、大砲の台座と固定金具の隙間、目立たない底部を注意深く覗き込んだ。そこには、職人の手による銘ではなく、小さく、しかし極めて精密な意匠が刻印されていた。
複雑に噛み合う三つの歯車と、それを貫く一本の針をあしらった、緻密な紋章――『ネロ商会』の印であった。
「やはりね……」
ロッソは指先でその刻印を撫でながら、冷徹な声で呟いた。
「この大砲の鋳造技術、そして充填されていた異臭のする黒い粉の調合……どれをとっても、現代の工房で作れる代物ではない」
ロッソは立ち上がり、胸元のポケットから真鍮の懐中時計を取り出した。パチンと蓋を開けると、刻印された歯車たちが規則正しい音を立てて回っている。
「工芸都市で目にした見たこともない精巧な道具、溢れ返る過剰な金や物資……そして、この時代錯誤な破壊力を持つ試作大砲。……点と点が、完全に一本の線でつながったよ」
「ロッソ殿……それは一体、どういうことなのですか?」
バルテル副官が不審そうに尋ねる。
ロッソは芝居がかった手つきで顎を撫で、冷ややかな目を浮かべた。
「この『ネロ商会』と名乗る者たちの狙いだ。……奴らが何を目的として動いているのか、その真意まではまだわからない。だが、一つだけ確かなことがある」
ロッソは手にした懐中時計の蓋を静かに閉じ、眼光を鋭く光らせた。
「彼らはこの時代の技術体系から大きくかけ離れた『過剰な文明』を意図的に歴史の隙間へ流し込んでいる。そして、力を手に入れた人間の全能感や焦躁を煽り立て、この国を、人間たちの運命を弄んで惨劇を引き起こそうとしているのだ」
「そんな……なぜ、そのような恐ろしい真似を!?」
バルテル副官が驚愕に声を上げた。
「奴らの真の企みが何であれ、これ以上好き勝手に『過剰』を撒き散らさせ、人が踊らされるのを見過ごすわけにはいかないね」
「……ロッソ」
静かに佇んでいた少女ユキが、すっと前へ踏み出した。その白い瞳は、遠く北の地平線——ネロ商会の足跡が伸びる方向を見つめている。
「……しっぽ。掴んだ」
「ああ。完全にね」
ロッソは唇の端を美しく歪め、不敵な笑みを浮かべた。
「ネロ商会……君たちがどんな思惑でこの国を弄ぼうと、私とユキがいる限り、好きにはさせない。君たちが撒き散らす歪んだシナリオは、すべて私たちが解体してあげるよ」
「ロッソ殿……行かれるのですか?」
バルテル副官の問いかけに、ロッソは振り返ることなく片手を軽く上げて答えた。
「長居は無用だ。不自然な『過剰』を撒き散らしている本体を、追わなければならないからね」
朝陽が国境の要塞を黄金色に染め上げる中、探偵と少女は静かにアーチ門をくぐり抜けた。
歴史の影で暗躍する謎の商人『ネロ商会』。その巨大な陰謀を追う二人の旅路は、確かな手がかりとともに、次なる舞台へと続いていくのだった。
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