↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
59/84

10:書き換わる世界と観測者

 カラン、と寂しげな余韻を残して、石畳の上に転がった鋼の剣が動かなくなった。

 青年将校ヴァルターは両膝を折り、返り血を浴びるはずだった両手を顔に押し当てたまま、小さく身を震わせている。その口から漏れるのは、もはや救国の意志や熱狂の怒号ではなく、己の浅はかな盲信と過ちに打ちのめされた、絶望に満ちた呻き声だけであった。側に控えていた若い側近たちも、主の屈服と提示された冷酷な事実の前に完全に戦意を失い、蒼白な顔で立ち尽くすことしかできない。


 殺意は完全に瓦解した。

 過剰な力という毒に酔い、恩人である老将軍へ向けられていた悲劇の刃は、探偵ロッソの打ち立てた冷徹な論理と証拠によって、その存在理由を根底から失ったのだ。


「……終わったね」

 ロッソが静かに呟いた、その瞬間だった。


 ぐにゃり、と世界そのものが歪む不快な感覚が、閉ざされた砲門室の空間を包み込んだ。

 壁に掛けられた松明の赤々とした炎が、まるで水中に沈められたかのように一瞬だけ青白く沈み込み、影が不自然な角度で引き引き伸ばされる。ロッソの胸のポケットの中で、真鍮の懐中時計がパチンと甲高い音を立て、内側の繊細な歯車たちが猛烈な速度で逆回転を始めた。


 歴史の因果が、正しく書き換えられたのだ。

 惨劇が起きてから解決するのではない。惨劇そのものを未来から消し去ったことによる「世界の再構築」の瞬間。


「——う、ぐっ……!」

 直後、強烈な記憶の激流が、津波となってロッソの頭脳へとなだれ込んできた。

 それは、この時間軸では「起こらなかった」はずの、しかし確かに存在した第一時間軸の生々しい記憶。

 分厚い石壁に響き渡る肉が潰れる不快な音、胸元を貫かれ鮮血を撒き散らして倒れるアルベリック将軍の姿、床の窪みを満たしていく赤黒い血の海、そして充満する不快な硝煙と絶望の匂い——。


「くっ……」

 ロッソは額に薄っすらと汗を浮かべ、眉をひそめながらその記憶の衝撃を冷徹に受け止めた。脳の奥を直接氷の針で刺されたような痛みが走り抜けるが、探偵の理性は揺らがない。

 隣に立つ少女ユキもまた、白い肌をさらに青ざめさせ、小さな手で固く胸元を抱きしめている。時間遡行の媒介として過去と未来を繋いだ少女の瞳には、消え去った惨劇の記憶と、書き換わった現在の光景が重ね合わされていた。


 そして——第一時間軸の記憶が叩き込まれたのは、探偵と少女だけではなかった。


「あ……あぁ……っ、ああああっ!!」

 凄絶な叫び声が、石造りの室内に響き渡った。

 老副官バルテルが、胸を激しく叩かれたかのようにその場に膝を突き、石畳の上に両手を突いて激しく身を震わせ始めた。その瞳からは、止まることのない涙が溢れ出し、皺の刻まれた顔を濡らしていく。


「バルテル……? どうしたというのだ」

 それまで沈黙を守っていたアルベリック将軍が、怪訝そうに眉をひそめ、崩れ落ちた腹心へと手を伸ばした。

 無傷の肉体。貫かれていない厚い軍衣。力強く踏みしめられた両足。

 目の前に無事で立っている主の姿を仰ぎ見た瞬間、バルテル副官は息を詰まらせ、喉を詰まらせるような哭声を上げた。


「将軍……! アルベリック将軍……っ! 生きて……おいでなのですか……! あの恐ろしい血の海が……刺し貫かれたお姿が……あぁ、神よ……っ!」

「何を言っているのだ、バルテル。錯乱したか? 私はここにいる」

 将軍は副官の不自然な言葉と涙に戸惑いながらも、その肩を強く抱き起こした。

 バルテル副官の脳内には、確かに存在していたのだ。主が青年将校の刃に倒れ、自分は何一つ抗えずにその死を見届けたという、地獄のような絶望の光景が。それが今、目の前で「無傷で生きている将軍」という現実と衝突し、救いの安堵となって老兵の心を激しく揺さぶっていた。


 これが、観測者の担う宿命。

書き換えられた第二時間軸において、第一時間軸の悲劇の記憶を持ち越し、惨劇の回避を「知覚」できる唯一の第三者。


「ふむ……相変わらず、不快な記憶の書き換わり方だね」

 ロッソは外套の襟を整え、冷ややかな視線を一連の光景に向けた。

 ヴァルターは自らの愚かさに打ちのめされて立ち上がれず、アルベリック将軍は涙する副官を抱え、密室を支配していた破滅の気配は完全に去っていた。


「これで君の依頼は完了したよ、バルテル副官」

 ロッソは静かな足取りで崩れ落ちる老副官の傍らへと歩み寄り、冷徹だが確かな響きを持つ声をかけた。

「惨劇は起きなかった。この愚かな青年将校が過ちを犯す前に、その歪んだ思考の誤謬は完全に削除された。もう要塞が内側から爆破されることも、将軍の命が奪われることもない」


「ロッソ殿……! あぁ……感謝いたします……! なんと御礼を申し上げればよいか……っ!」

 バルテル副官は涙に濡れた顔を上げ、救世主を見るような目でロッソの手を固く握りしめた。

 ロッソは芝居がかった手つきで老人の手を優しく解くと、真鍮の懐中時計を取り出し、パチンと蓋を開けて見せた。規則正しく刻まれる秒針の音。それは、この世界が正しく、健全な時を刻み始めたことの証明であった。


「感謝なら、あそこに立つ老将軍の沈黙に捧げたまえ。私はただ、提示された事実に沿って愚者の愚かさを指摘したに過ぎない」

 ロッソは背を向け、少女ユキへと視線を送った。

「行きましょう、ロッソ。……この部屋の濁りは、もう消えた」

「ああ。だが……まだ片付けるべき『ゴミ』が残っている」


 ロッソの瞳の奥で、氷のように冷たい光が怪しく揺らめいた。その視線は、部屋の中央で虚しく黒い砲口を晒す試作大砲——ネロ商会が持ち込んだ時代錯誤な「異物」へと向けられていた。


感想いただけると狂喜乱舞しますので感想くださいください

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。