9:恩義の修正
石造りの砲門室を満たす静寂は、いまや物理的な圧力となってヴァルターの肩に重く伸しかかっていた。
松明の赤々とした火影に照らされた青年将校の顔から、急速に血の気が引いていく。自慢げに据え付けられた巨大な試作大砲、その黒々とした鋳鉄の砲口が指し示しているのは、遥か遠くの敵本陣などではなく、谷の手前で静かに陣を払い始めていた敵の殿軍の足元——。
探偵ロッソによって突きつけられた物理的な射角の矛盾は、青年の頭の中に築かれていた「先制攻撃による救国」という脆い楼閣を、足元から粉々に打ち砕いていた。
「な……何を言っているんだ、探偵……!」
ヴァルターの声が激しく震えた。握りしめられた剣の刀身が、カチカチと不吉な金属音を立てて揺れる。
「撤退だと……!? 敵が退いているだと!? 馬鹿な……奴らは我が国を呑み込もうと、国境に大軍を集結させていたはずだ! それを今叩かなければ、我が国は……我が国は……っ!」
「悲しいかな、君のその過剰な危機感と義務感こそが、見知らぬ商人の都合のいい苗床にされたというわけだね」
ロッソは憐れむような不敵な笑みを口元に浮かべると、漆黒の外套のポケットから、一握りの折りたたまれた羊皮紙の破片を取り出した。
それは、本丸の司令官執務室——あの暖炉の灰の中に燃え残りとして転がっていた、隣国の独特な印章が刻まれた羊皮紙の断片であった。
「な……それは……?」
「将軍の部屋の暖炉にくべてあったものだよ。君たちが『将軍が敵国と交わそうとしていた見苦しい命乞いの書状』だと決めつけ、破り捨てて燃やした紙切れの残骸さ」
ロッソは芝居がかった手つきで羊皮紙の破片を平らに並べ、松明の光にかざして見せた。
「破片の文面と、使われている公的な書式をつなぎ合わせれば、真実は明白だ。これは命乞いなどではない。隣国の全権大使とアルベリック将軍との間で、すでに極秘裏に締結されていた『無条件撤退に関する国境協定書』の控えだよ」
「協定……書……?」
老副官バルテルが息を呑み、縋るような目で老将軍を見上げた。
アルベリック将軍は頑なまでに固く口を結んだまま、微動だにせず佇んでいる。その沈黙こそが、ロッソの言葉が紛れもない真実であることを無言で物語っていた。
「そうさ」
ロッソの声が、氷のように冴え渡る。
「敵は最初から戦意を失っていたのだよ。長引く対峙による疲弊に耐えかね、密かに和睦の手を伸ばしてきた。将軍はその手を取り、これ以上の無用な流血を避けるために、粘り強い交渉で敵を無条件撤退へと追い込んだのだ。……勝敗は、君たちがこの不気味な鉄の筒を有難がる前に、すでに外交によって決していたのだよ」
「嘘だ……! そんなはずがあるか!」
ヴァルターが咆哮した。だが、その瞳から理性の色が急速に失われ、代わりに底知れぬ絶望と狼狽が広がり始める。
「なら……なら、なぜ将軍は黙っていた!? 俺たちが『臆病者』『売国奴』と激しく詰問した時、なぜこの協定書の存在を明かして俺たちを説得しなかった!? 真実を話してくれれば、俺だって……っ!」
「明かせるわけがないだろう?」
ロッソは冷ややかな眼光でヴァルターを射抜いた。
「過剰な力に目が眩み、敵への被害妄想に狂っていた君たち若い兵士に、協定の存在を教えればどうなるか……将軍が予測できないとでも思ったのかな? 君たちは間違いなく『敵の罠だ』『日和った老害の嘘だ』と激昂し、協定を無視してあの試作大砲を撃ち込んでいたはずだ」
ヴァルターの体が激しく強張る。
ロッソの言葉は、青年の心の奥底にある「抑えきれない血気」の正体を残酷なまでに暴き立てていた。
「将軍は君たちを守ろうとしていたのだよ、ヴァルター青年将校」
ロッソは倒れた死体もない、無傷のアルベリック将軍へと静かに視線を向けた。
「将軍はあえて部下たちから罵られ、売国奴の汚名を着ることを選んだ。そして、この砲門室の二重扉の鍵を自らの胸元深く隠し、命懸けで君たちの前に立ち塞がった。なぜか判るかい? 協定が正式に発効し、敵が完全に国境線から姿を消すその刻限まで……自分一人が悪者になって時間を稼ぎ切るためさ」
「将軍が……俺たちを……守る、ため……?」
「そうさ。君たちが過剰な力に踊らされ、せっかく訪れるはずだった平和を自らの手でぶち壊し、自滅の泥沼へ突き進むのを防ぐためにね。……君が『保身に走る臆病者』だと蔑んでいた人物こそが、死を覚悟して君たちの破滅を食い止めようとしていた恩人だったのだよ」
ドスン、と重い音が響いた。
ヴァルターの手から、血に染まるはずだった鋼の剣が滑り落ち、石畳の上で虚しい乾いた音を立てて転がった。
青年の両膝が力なく折りたたまれ、石畳の上に崩れ落ちる。
「俺は……俺は、一体何を……」
顔を両手で覆い、ヴァルターの口から漏れたのは、狂熱の叫びではなく、己の犯そうとした過ちの恐ろしさに打ちのめされた、惨めな呻き声であった。
「救国の英雄気取りかい? 愚かしい」
ロッソは冷酷に吐き捨てた。
「君はネロ商会という正体不明の商人に『過剰な玩具』を掴まされ、自国を永遠の戦争へ叩き落とすための『都合のいい道具』として利用されていただけの、惨めな捨て駒に過ぎなかったのだよ」
殺意は完全に瓦解した。
青年将校が抱いていた「先制攻撃による救国」という妄想的な大義名分は、論理と証拠の前に根底から解体され、密室を覆っていた不快な緊張感は一瞬にして霧散した。
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