8:偽りの照準
分厚い石壁に囲まれた砲門室内に、冷ややかに澄んだ嘲笑が響き渡った。
松明の赤々とした火影を背に受け、探偵ロッソは朱色の外套の裾を優雅にさばきながら、一歩、前へ踏み出した。その足音は石畳を鋭く打ち鳴らし、殺気と緊迫感で満たされていた狭い室内の空気を、強引に切り裂く。
「……何がおかしい、探偵。死を前にして正気を失ったか?」
引き抜かれた剣を老将軍の胸元へ向けたまま、青年将校ヴァルターが不快そうに顔を歪めた。その手元は緊張と興奮で硬直しており、青い瞳には敵に対する激しい殺意と、最新の兵器を手にしたことによる過剰な全能感が渦巻いている。
「いいや、正気を失っているのは君のほうだよ、ヴァルター青年将校」
ロッソは唇の端を美しく歪め、侮蔑を込めた眼光を青年の手元へ向けた。
「君の目には、その黒々とした鋳鉄の筒が『国を救う神の雷』に見えているのだろうが……あいにく私の目には、見知らぬ商人に躍らされた愚者を嘲笑うための、お粗末な『からくり玩具』にしか見えないね」
「愚弄する気か……! 部外者が軽々しく口を挟むな!」
ヴァルターが剣の柄に手をかけ身構えた。だが、ロッソは彼を一瞥することすらなく、優雅な足取りで大砲と石壁の間へ割って入る。
「やめなさい、ロッソ殿!」
二人の間に挟まれた老副官バルテルが、蒼白な顔で悲鳴のような声を上げた。
「ヴァルターは正気を失っている! これ以上煽っては、将軍の身が……!」
「静かにしておいで、バルテル副官」
ロッソは片手を軽くかざして副官の制止を打ち消すと、背後に佇むアルベリック将軍へと一瞬だけ視線を送った。老将軍は胸元深く右手を当てたまま、無言の不屈の意志を宿した瞳でロッソの動向を見つめている。まだ、血は流れていない。第一時間軸のような破滅は、何一つ起きていないのだ。
「ヴァルター青年将校。君は先ほど誇らしげに語っていたね。この大砲の爆発的な威力があれば、谷の向こう深くに陣を張る敵の総本陣を一撃で灰燼に帰すことができる、と」
「当然だ! これだけの鉄の肉厚と、異臭を放つ黒い粉の圧力があれば、いかに頑強な敵の陣営であれ吹き飛ぶ!」
「なるほど、威力については君の妄想通りかもしれない」
ロッソは芝居がかった手つきで顎を撫でると、視線を砲身からそっと落とし、その「足元」を鋭く指し示した。
「だがね、どんなに素晴らしい威力を秘めた兵器であっても、標的に向いていなければただの鉄の塊に過ぎない。君は自分の握っている引き金が、一体どこに向けられているのか……その物理的な真実すら確かめていないのではないのかな?」
「何……?」
ヴァルターの眉がひそめられた。
ロッソは膝を折ることなく、足元の石畳を爪先で静かに叩いてみせた。そこには、大砲の重い木製砲車の車輪によって削り取られた、黒々と深い擦り傷痕が無数に交差している。
「この石畳の傷を見たまえ。君たちはこの巨大な鉄の筒をこの狭い砲門室へ引きずり込み、なんとか外の標的に照準を合わせようと、何度も台座を前後に引き据え、必死に角度を調整したようだね」
「それがどうした! 試射のための当然の設置作業だ!」
「ふむ。では、なぜそれほどまでに調整を繰り返さねばならなかったのかな?」
ロッソの声が、氷のように冷たく静かに室内に通る。
「答えは簡単だ。この部屋が、古い建築様式で作られた『石造り砲門室』だからさ」
ロッソの手のひらが、正面の石壁に穿たれた狭い砲門の縁を滑らかになぞった。
「見てごらん。この砲門の開口部は、外からの敵の矢弾を防ぐためにきわめて狭く、分厚い石壁が上下左右から覆いかぶさっている。そこにネロ商会から持ち込まれた時代錯誤な巨大砲身を無理やり突っ込んでいるのだ。……台座の固定金具の位置と、この砲門の縁の干渉を計算すれば、一目瞭然だよ」
ロッソは立ち上がり、ヴァルターの瞳を真っ直ぐに見据えた。
「この大砲の砲身は、構造上、これ以上一ミリたりとも上へ傾けることができない。つまり——可動域の限界だ」
「……可動域の、限界……?」
ヴァルターが、困惑したように呟いた。
ロッソの冷徹な論理の構築は止められない。
「放物線を描いて飛ぶ砲弾において、射角が上がらないという事実が何を意味するか……用兵を志す青年将校なら、理解できるだろう?」
ロッソの指先が、狭い射撃孔の最下部、外の闇に包まれた谷の底を一直線に指し示した。
「角度が上がらない以上、この大砲の照準線が描く弾道は、遥か遠くの山の端——君が信じ切っている『敵の総本陣』へは絶対に届かない。この砲口が指し示している本当の標的は、谷の手前……国境の目と鼻の先だ」
「な……ッ!?」
ヴァルターの顔から、一瞬にして全能感の色彩が引きかけた。
「何を言っている! 谷の手前になど、敵の本隊は——」
「そう、敵の本隊など存在しないのさ」
ロッソは唇の端を歪め、冷酷な宣告を突きつけた。
「照準が指しているその場所は、すでに陣払いを終え、国境から静かに引き揚げつつある敵の『殿軍』の足元だ。君が誇らしげに狙いを定めているのは、敵の総大将の首ではない。撤退しようとしている敵の背中だよ、ヴァルター」
言葉が放たれた瞬間、石造りの砲門室は凍りついたような静寂に包まれた。
松明の火影がゆらゆらと揺れ、青年将校の手から血の気が引いていくのが目に見えてわかった。彼が抱いていた「先制攻撃による救国」という大義名分が、探偵の提示した単純な物理的配置の矛盾によって、足元からグラグラと揺らぎ始めていた。
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