7:反転する思考
瞬間、頭脳の奥底を冷たい針で刺されたような感覚が走り抜けた。
視界が一瞬だけ反転する。黒い背景の上に、眩いばかりの銀色の歯車が逆回転する幻影が重なり、次の瞬間には、元の重苦しい石の壁と松明の火影の中へと引き戻されていた。
鼻腔を突くのは、焦げた硫黄と湿った金属の不快な異臭。
足元には、古びた石畳の冷気。
そして何より——まだ血の匂いはどこにも漂っていなかった。床に赤黒い液体の広がりはなく、老将軍アルベリックは命を奪われることなく、胸元深く右手を当てたまま、凛とした不屈の姿勢で仁王立ちしている。
(……いまの、感覚は……?)
ロッソは朱い外套の袖口からそっと真鍮の懐中時計に触れ、密かに息を呑んだ。
何かが起きた。時間の歯車がほんのわずかに噛み合いを滑らせ、直前までの思考の糸が強引に引き直されたような不気味な違和感。だが、過去のロッソにはその正体を知る術はない。ただ、己の知性と直感が「何か決定的なトリガーが引かれた」と告げていた。
「さあ、将軍。諦めてあの『鍵』を渡していただきましょう! この砲門室の二重扉を外し、大砲の固着具を解放するための唯一の鍵を!」
青年将校ヴァルターの怒号が、重厚な二重扉で閉ざされた砲門室内に甲高く反響する。
その隣では、老副官バルテルが顔を蒼白にし、震える手で二人の争いを止めようと必死に縋り付いていた。
「やめろ、二人とも……! 密室の中で争っている場合では——」
「黙っていらっしゃい、バルテル副官!」
ヴァルターは老副官を押し退け、腰の剣の柄に指をかけた。手元が白くなるほど強く握りしめられ、瞳には過剰なまでの全能感と、引き返せない道へ踏み出そうとする青い狂気が宿っている。
(いけないね。ヴァルターの思考は完全に自暴自棄の全能感に支配されている。このままでは将軍は鍵を渡さず、青年は……)
ロッソは思考を巡らせた。だが、手札が足りない。ヴァルターの暴走を止めるための決定的な言論の糸口が見つからず、ロッソの冷徹な思考回路すら焦燥の不調和音を奏でかけていた。
その時だ。
すぐ隣に立っていた少女ユキが、小さく身体を震わせた。
「……あっ」
ユキの唇から、かすかな吐息が漏れる。彼女の白い肌が一瞬にして幽鬼のように青ざめ、額にはうっすらと珠のような汗が浮かんでいた。まるで、遥か遠い未来の深淵から、物理的な質量を持った「言葉」をその小さな肉体へ強引に叩き込まれたかのように。
「ユキ……?」
ロッソが眉をひそめ、少女の肩に手を伸ばそうとしたその瞬間——ユキの瞳から感情の光が完全に消え去り、無機質な透明感だけが残された。
ユキはヴァルターでも将軍でもなく、部屋の中央に鎮座する不気味な試作大砲を見つめたまま、不自然なほど澄んだ声で呟いた。
「——射角を、疑え」
言葉は、それだけだった。
短い囁きのような一言。だが、その一言が発せられた瞬間、砲門室内の張り詰めた空気が目に見えて歪んだ。老副官バルテルも、剣に手をかけたヴァルターも、一瞬だけ少女の突拍子もない呟きに視線を奪われ、硬直する。
(……射角を、疑え……?)
ロッソの脳内で、その言葉が猛烈な速度で反響し始めた。
違和感の嵐が、探偵の頭脳を駆け巡る。
なぜ「威力を疑え」ではないのか? なぜネロ商会の「正体を暴け」でもなく、「将軍の真意を聞け」でもないのか?
射角——つまり、大砲が指し示している「物理的な傾斜角度」だ。
(私は何に目を奪われていたんだ……? あの不気味に滑らかな鋳鉄の肉厚、異臭を放つ黒い粉の爆発力、そして『遥か遠くの敵陣を壊滅させる』という青年の過剰な言葉……。そうか、私は大砲の『威力』と『遠くの標的』ばかりに気を取られていたんだね)
ロッソの鋭い眼光が、芝居がかった手つきを捨てて、一気に下降した。
ヴァルターの怒号も、将軍の重苦しい沈黙も、今のロッソの意識からは完全に遮断されていた。彼女の視線は、黒々とした大砲の砲身ではなく、その「足元」——石畳の表面へとまっすぐに突っ込まれる。
(……あった)
目地の隙間に、かすかに刻まれた車輪の痕。
台座が何度も前後に引き据えられ、角度を合わせようと試行錯誤された痕跡だ。
そして、ロッソの視線はそのまま轍の直線を辿り、正面の石壁に穿たれた狭い砲門へと向かう。
この砲門室は古い建築様式で作られたものであり、外の闇を覗かせる開口部は驚くほど狭く、分厚い石壁の縁が覆いかぶさっている。そこにネロ商会から持ち込まれた時代錯誤な巨大砲身が突っ込まれているのだ。
(台座の固定金具の爪の位置、そしてあの砲門の縁と砲身の干渉……! 計算するまでもない。この構造では、砲身の角度はこれ以上一ミリたりとも上がらない!)
ロッソの瞳の奥で、冷徹な理性の光が爆発するように弾けた。
可動域の限界。それは何を意味するか?
角度が上がらないということは、照準が描く放物線は、遥か遠くの山の端——ヴァルターが信じ切っている『敵の総本陣』へは絶対に届かないということだ。
(なら、この照準線が指し示している本当の場所は……どこだ?)
ロッソの頭脳の中で、物理配置の矛盾と、将軍の執務室の暖炉にあった「燃え残りの羊皮紙」の記憶が、完璧な一つのパズルとなって噛み合わさった。
「くく……フハッ」
静まり返った砲門室の中に、ロッソの低い、冷ややかな嘲笑が響き渡った。
剣を抜きかけ、老将軍へ踏み出そうとしていたヴァルターが、不快そうに顔を歪めて振り返る。
「……何がおかしい、探偵。死を前にして正気を失ったか?」
「いいや、正気を失っているのは君のほうだよ、ヴァルター青年将校」
ロッソは優雅に外套の裾をひろげ、不敵な笑みを口元にたたえながら、惨劇の渦中へと静かに一歩を踏み出した。
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