6:一言の演算
石造りの砲門室を満たす空気は、凍りついたように重く、不快だった。
無惨に倒れたアルベリック将軍の胸元から流れる血は、石畳の窪みに広がり、松明の赤々とした光を妖しく映し出している。悲鳴のような哭声を上げ続ける老副官バルテルと、血塗られた剣を握りしめたまま過剰な達成感と歪んだ全能感に酔い痴れる青年将校ヴァルター。二人の吐息と硝煙の交じる不快な熱気が、分厚い二重扉で閉ざされた密室に渦巻いていた。
だが、ロッソの視線はすでに彼らには注がれていなかった。
眼前で起きた惨劇——自らの手をすり抜けて引き起こされた最悪の結末を、探偵の頭脳は冷徹に、そして凄惨なまでの速度で分解し、再構築していた。
(不覚だったね……。あの大砲という『過剰な異物』の威容と、愚かな青年の暴走に気を取られ、私は一番単純な物理の真実を見落としていた)
ロッソは静かに目を閉じ、脳内に広がる現場の精密な図面を組み替えていく。
この時間軸で手に入れた断片——暖炉の中で燃え残っていた『隣国との無条件撤退の和睦協定書』。老将軍が最後まで命懸けで隠し通した『砲門室の鍵』。そして、ネロ商会から持ち込まれた鋳鉄製の大砲が残した『石畳の轍』と、狭い石造り砲門の『可動限界』。
それらの点が、一本の鮮やかな論理の線となってつながっていく。
(老将軍は日和ったわけでも、臆病風に吹かれたわけでもない。……それなのにヴァルター、君という愚か者は、ネロ商会が仕掛けた不快な玩具に目を奪われ、己が国を救う英雄だと信じ切っていたわけだ)
ロッソの唇に、冷ややかな歪んだ笑みが浮かぶ。
ネロ商会の狙いは明白だった。
(悲劇の構造はすべて暴けた。動機たるものを解体するためのパズルは完成したよ。……あとは、この事実を『過去の私』へ送り届けるだけだ)
ロッソは胸元のポケットから、真鍮の懐中時計を取り出した。パチンと蓋を開けると、繊細な歯車が規則正しい刻印の音を奏で始める。
だが、過去へ送ることができるのは、答えそのものではない。時間の因果を乱さず、過去のロッソが自らの論理で真相へ跳躍するための『抽象的なキィワード』——たった一言だけだ。
(過去の私は、今まさにあの部屋でヴァルターの暴言に耳を傾け、あの大砲の圧倒的な威力と存在感に毒されている。……答えを教えては意味がない。自分の視点を、あの黒々とした砲身から、その傾斜と物理的な矛盾へ一気に跳ばす言葉でなければならない)
「大砲の威力を疑え」……いや、甘いな。これでは過去の私が爆薬や構造の欠陥を探し始めてしまう。
「将軍の真意を見ろ」……不十分だ。動機を解体する前に将軍が刺されれば終わりだ。
ロッソの鋭い眼光が、巨大な砲身と、それが向けられた狭い石扉の開口部——その絶妙に不自然な傾斜角度へと向けられた。
(……そうだ。見落としているのは『向き』であり『角度』だ。過剰な力に目が眩んだ愚者も、それを防ごうと焦る私も、標的の遠さばかりに気を取られ、足元の照準を見ていない)
「ユキ」
ロッソは静かに呼びかけた。
隣に佇む少女ユキが、すっと顔を上げた。その白い肌は幽鬼のように青白く、感情を削ぎ落とした瞳の奥には、時間の歪みがもたらす微かな揺らぎが浮かんでいる。
「演算は完了したよ。過去の私の盲点を突く、決定的な言葉だ」
「……うん。ロッソ。……刻限、来てる」
ユキの小さな唇が微かに震え、その身体がぎちぎちと硬直を始めた。未来からの伝言を過去へ送るための境界線となる少女の肉体に、目に見えぬ時間の負荷が凄まじい圧力となって押し寄せる。呼吸は浅く荒くなり、白い髪が静電気を帯びたように微かに浮き上がった。
「ユキ、耐えておくれ。……過去の私へ、この一言を」
ロッソはユキの小さな肩をそっと抱きよせ、耳元で冷徹かつ確信に満ちた声を囁いた。
「——『射角を疑え』」
パチン、と懐中時計の蓋が閉じられた。
その瞬間、石造りの砲門室を包む不快な熱気と血の匂いが、歪んだ空気の波となって激しく反転を始める。倒れた老将軍の血だまりも、狂気に震えるヴァルターの姿も、時間の渦の中へと溶けて薄れていく。
過去へ届くのは、たった一つの言霊。
愚かな惨劇を過去のものとし、書き換えるための時間が、静かに巻き戻り始めた。
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