5:砲門の傷痕
石造りの砲門室に、濃厚な血の残香と、冷えた石を撫でる寒風の音が満ちていた。
無惨に倒れたアルベリック将軍の胸元から流れ出た赤黒い血は、古びた石畳の目地に沿ってゆっくりと広がり、松明のゆらゆらと揺れる火影を不気味に反射している。死の直前まで胸元を庇っていた右手は力尽きて床に落ち、その血の気の失せた指先からは、あの重々しい二重扉の鍵が半ば覗いていた。
「あぁ……将軍……アルベリック将軍……っ!」
老副官バルテルが膝を突き、喉をかき毟るような慟哭を上げる。その悲痛な声は狭い石室の壁に幾重にも反射し、虚しく響き渡るばかりだった。
一方、血塗られた鋼の剣を握りしめた青年将校ヴァルターは、荒い息を吐きながら床の死体を見下ろしていた。その肩は激しく上下し、青い瞳には狂熱と、自らの手で恩人を手にかけたことによる不気味な興奮が渦巻いている。
「これで……これでよかったのだ。我が国を泥沼の敗北へ導こうとしていた老害は去った。この要塞の指揮権は、俺の手にある……!」
惨劇を未然に防ぐことができなかった——その冷酷な事実は、ロッソの胸を冷たく射抜いていた。
外套のポケットの中で硬く握りしめられた手が、微かに震える。惨劇の引き金を引かせまいと立ち塞がりはしたものの、犯人の事実誤認を打ち砕く「決定的な証拠」をその場で提示できず、目の前で尊い命が奪われるのを許してしまった。
自らの不覚に対する静かな怒りと苛立ちが、不快な熱となって腹の底で渦巻く。
だが、ロッソは深く一度息を吐き出すと、芝居がかった手つきで薄手の革手袋の縫い目を静かに整えた。その瞳から焦燥の色は消え去り、凄惨なまでに冷徹な「探偵の光」が取り戻されていた。
(倒れた被害者を前にして感情に呑まれるのは、無能な捜査官のすることだ。……起きてしまった失態を消し去るために、いま私がなすべきは、この現場に隠された全ての『事実』を拾い上げることだけだね)
ロッソは叫び続けるバルテルや、血に酔い痴れるヴァルターに一切視線を向けなかった。ここで犯人を詰問し、未完成の仮説をぶつけたところで何の意味もない。
「ユキ。松明をもう少しこちらへ引き寄せておくれ」
「……うん。ロッソ、ここ、すごく冷たい」
少女ユキが静かに松明の柄を掲げ、不気味な影を揺らしながらロッソの足元を照らした。
ロッソは広がる血の海を静かに避けながら、部屋の中央を占拠する巨大な試作大砲へと歩み寄った。
ロッソの鋭い眼光が向かったのは、不自然なまでに滑らかな鋳鉄の砲身ではなく、その足元——石畳の表面であった。
頑丈な木製の台座が据えられた石畳には、黒々と刻まれた無数の擦り傷——車輪の移動痕と、壁に打ち込まれた固定金具の摩擦痕が存在していた。
(ほう……砲床の傷がひどく不自然だね。この巨砲を引き据えた際、角度を合わせるために何度も位置を調整した痕跡がある)
ロッソは静かに膝を折り、石畳の目地に残された傷を指先でなぞった。そして、そこから直線を引くように視線を上げ、正面の石壁に穿たれた狭い砲門へと目を向けた。
外は吹き荒れる北風と、濃密な夜の闇が広がっている。
ヴァルターは「この大砲で谷の向こうに集結する敵の本陣を先制撃滅する」と豪語していた。だが——。
(可動域が、あまりにも狭すぎる)
ロッソの脳内で、精密な幾何学の図面が組み上げられていく。
この元々は武器庫であったという「砲門室」は古い建築様式で作られたものであり、開口部である砲門の幅はきわめて狭い。そこにネロ商会から持ち込まれた時代錯誤な巨大砲身を無理やり突っ込んでいるため、砲身を左右に振り、射角を上げる余地はほとんど残されていなかった。
(台座の固定金具の構造と、この砲門の縁の干渉を見る限り……砲身の角度はこれ以上高く上がらない。つまり、この大砲の照準線が指し示している場所は——遥か遠くの『敵本陣』などではない)
ロッソの視線は、開口部の最下部、谷の手前の暗闇へと一直線に伸びた。
(照準が指しているのは、谷の手前……)
ロッソの思考の中で、点と点が繋がり、鮮やかな線を描き始める。
将軍の執務室にあった暖炉の煤煙——あれは隣国との間で成立しかけていた『無条件撤退の和睦協定書』だった。敵はすでに戦意を失い、撤退を開始していたのだ。
にもかかわらず、ネロ商会という怪しげな商人は、この狭い砲門室に不釣り合いな巨大砲を持ち込み、目が眩んだヴァルターに過剰な力を与えた。
(フッ……そういうことか、ネロ。君の狙いは敵を打ち破ることではない)
すべての謎が解けた。
被害者である老将軍が頑なに言葉を閉ざし、鍵を隠した理由。
加害者である青年将校の抱く「救国」という痛ましい過剰な全能感と事実誤認。
そして、影で糸を引くネロ商会の不快な企みの全貌。
ロッソは静かに立ち上がると、返り血を浴びて虚空を睨みつけるヴァルターを一瞥した。真実を語ってやる必要すらない。愚かな青年の歪んだ信念は、過去の世界で完膚なきまでに修正してやればいいのだから。
「……行くよ、ユキ」
ロッソは胸元のポケットから、真鍮の懐中時計を取り出した。パチンと蓋を開けると、規則正しい刻印の音が、血の臭う密室の中に静かに響き渡る。
「……うん。準備、できてる」
ユキが小さく頷き、ロッソの外套の裾をそっと握りしめた。その瞳はすでに、現在ではなく「巻き戻るべき過去」の瞬間を見つめている。
「過去の私へ届ける『一言』の演算を始めよう。あのアホらしい大砲の威容に目を奪われ、足元の角度を見落としている哀れな私を……正しく導いてやるためにね」
ロッソの唇に、冷徹で誇り高い探偵の笑みが浮かんだ。
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