4:断絶と惨劇
分厚い石壁に囲まれた砲門室の中は、死を思わせる静寂に包まれていた。
重厚なオーク材の二重扉が固く閉ざされ、鉄の閂が落ちた瞬間、外界の風音は遠くかすかな唸り声へと変わっていた。室内に残されたのは、壁に掛けられた松明が上げるパチパチという不吉な爆ぜ音と、中央に鎮座する黒々とした巨砲が放つ、鉱物と硫黄の混ざり合った異臭だけだった。
「さあ、将軍。鍵を渡し、その不毛な沈黙を破っていただきましょうか」
青年将校ヴァルターの手が、完全に腰の剣の柄にかかっていた。指先が白くなるほど強く握りしめられ、その瞳には過剰な使命感と、引き返せない道へ足を踏み入れた者の狂気が渦巻いている。
「断る」
アルベリック将軍は一歩も引かず、胸元深く懐に手を当てたまま、氷のように冷たい声で突っぱねた。
「この砲門室の鍵も、試作大砲の開放許可も、お前のような青二才に渡すわけにはいかん。この兵器が呼び込むのは、お前が夢見る勝利などではなく、この要塞の完全な破滅だ」
「破滅だと……! 我が国を破滅へ追いやろうとしているのは、敵の脅威から目を背け、平和などという夢想に縋るあなただ!」
ヴァルターの吼え声が、狭い石造りの空間に激しく反響した。
(……チッ、まずいな)
探偵ロッソは、外套のポケットの中で固く拳を握りしめた。その額には、普段の冷徹な彼女からは考えられない、微かな汗が滲んでいた。
ロッソの使命は、事件が起きてから犯人を暴く無能な代官の真似事ではない。惨劇が起きる前に、犯人の歪んだ思考を論理で解体し、惨劇そのものを『未然に防止』することだ。だが——今のロッソの手元には、あまりにも手札が少なすぎた。
(ヴァルターの動機は『敵への過剰な恐怖』と『新兵器による全能感』だ。そして将軍が黙秘を貫くのは、何か別の真意があるからだ……そこまでは読めている。だが、それを証明する『客観的な事実』が足りない!)
ロッソの脳内で、論理のパズルが猛烈な速度で組み替えられていく。
なぜ将軍はこれほどまでに弁明を拒むのか? なぜヴァルターの言葉に一切耳を貸さず、ただ鍵を隠して耐え忍ぼうとするのか? そして何より、あのネロ商会が持ち込んだ不自然な大砲の存在——。
何かが決定的に食い違っている。だが、それを証明する「目に見える証拠」が手元にない以上、どんな言葉を投げかけたところで、過剰な力に酔い痴れた青年将校の殺意を止めることはできない。
「ロッソ……」
隣に立つ少女ユキが、ロッソの袖を不吉な強さで引っ張った。その瞳は揺れ、惨劇の刻限が秒読み段階に入ったことを知らせている。
「……時間が、ちぎれる。もう、止まらない」
「分かっている……!」
ロッソは歯噛みした。時間が足りない。この閉ざされた空間で、何の手がかりも掴めぬまま、惨劇の引き金が引かれようとしている。未然に防ぐべき探偵が、ただの「死の目撃者」へと降格させられようとしているのだ。胸を焼くような焦燥と苛立ちが、ロッソの冷徹な理性を不気味に揺さぶった。
「ヴァルター、待ちたまえ!」
ロッソは一歩前へ踏み出し、芝居がかった手つきを捨てて、低く鋭い声で制した。
「君のやろうとしていることは、国を救うことではない! その大砲が何をもたらすか、君は本質を何も理解していない!」
「部外者は引っ込んでいろ!」
ヴァルターはロッソを一瞥し、激越した声で一蹴した。
「言葉など不要だ! 最新の力がここにある! 歴史を切り開くのは、臆病者の議論ではなく、我らの鉄と血だ!」
「やめろ、ヴァルター! 将軍に剣を向けるなど——!」
老副官バルテルが悲痛な叫びを上げ、二人の間に割って入ろうとした。
だが、時はすでに遅かった。
鞘から引き抜かれた鋼の刀身が、松明の赤々とした光を反射して怪しくギラリと閃いた。
「我が国の未来のために……消えてもらう、アルベリック将軍!」
「去れ、愚か者が!」
アルベリック将軍が腰の剣に手をかけようとしたその一瞬よりも早く、過剰な全能感と焦躁に突き動かされたヴァルターの突進が勝った。
グシャリ、と肉と骨が潰れる嫌な音が、狭い砲門室内に鈍く響き渡った。
「が、は……っ!」
アルベリック将軍の口から、鮮血が噴き出した。
ヴァルターの放った鋭い刺突が、老将軍の厚い軍衣を貫き、その胸深くと突き刺さっていた。白髪の交じる髭が赤く染まり、将軍の体が崩れ落ちそうになる。しかし、将軍は倒れながらも……右手を固く胸元へ押し当て、最後まであの鉄の鍵を渡すまいと握りしめていた。
「あ……ああああっ! 将軍……! アルベリック将軍っ!!」
老副官バルテルが絶叫し、石畳の上に崩れ落ちた。その瞳は恐怖と絶望に染まり、床を滑っていく赤黒い血の広がりに生気を奪われていく。
「はぁ……はぁ……! 俺は、俺は間違っていない……! これで、我が国は救われるのだ……!」
血塗られた剣を握り締め、ヴァルターは肩を激しく上下させながら呟いた。その顔は返り血で汚れ、瞳からは完全に理性の光が失われていた。
目の前で倒れ伏す老将軍の肉体。床に広がる濃厚な血の匂い。
惨劇は、起きてしまった。
未然に防ぐことができず、この時間軸の破滅を許してしまったという事実が、ロッソの胸を冷たく射抜いた。
「……くそッ」
ロッソは絞り出すような声で吐き捨て、不快そうに顔を歪めた。
だが、探偵の瞳から焦燥の色は消えていた。代わり宿ったのは、自らの不覚に対する苛立ちと、倒れた被害者、そして血に染まる部屋の全景を隅々まで焼き付けようとする、凄惨なまでに冷徹な執念の光だった。
(間に合わなかった……。だが、タダで引き下がると思うなよ、ネロ)
ロッソは真鍮の懐中時計を硬い手つきで握りしめ、血の海の中心で仁王立ちするヴァルター、そして部屋の中央で異彩を放つ試作大砲へと、鋭い眼光を走らせ始めた。
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