2:沈黙の将軍
西城壁の喧騒を離れ、要塞の最深部に位置する本丸へと続く長い石階段を上るにつれ、周囲の空気は急激に冷たさを増していった。兵士たちの熱狂的な怒号や、あの巨大な鉄の筒が放つ不気味な気配は遠ざかったものの、代わりにそこを支配していたのは、息が詰まるほどの沈黙と重苦しい孤立感であった。
重厚なオーク材の扉を押し開けると、司令官執務室の室内には暖炉の薪が爆ぜる低い音だけが響いていた。
部屋の壁には古びた羊皮紙の地図が何枚も掲げられ、長い歳月の間に幾度も塗り重ねられた国境線が赤墨で描かれている。室内を照らすのは、壁の松明と暖炉の仄暗い火影のみ。その炎のゆらめきの中に、要塞司令官アルベリック将軍は静かに佇んでいた。
「……バルテルか。部外者を連れて来るとは、何の真似だ」
暖炉に向かって背を向けたまま、低い声が響いた。
振り返ったアルベリック将軍の姿には、長年の戦場を生き抜いてきた叩き上げの軍人特有の威厳が満ちていた。白髪の混じった厳めしい髭、甲冑越しにもわかる頑強な体躯、そして幾多の死線をくぐり抜けてきた者だけが持つ鋭い眼光。だが、その瞳の奥には、拭い去ることのできない深い疲弊と影が色濃く落とされていた。
「将軍、この方々は探偵のロッソ殿と、そのお連れの方です」
老副官バルテルが畏まり、痛切な声を絞り出す。
「この要塞の均衡はもう破れかけております! ヴァルターたちの過激な動きはすでに抑えきれません。彼らはネロ商会から持ち込まれた恐ろしい兵器に目が眩み、あなた様を排してでも開戦を強行しようとしている……! どうか、ロッソ殿に助言を——」
「黙りたまえ、バルテル」
アルベリック将軍は静かに、しかし一言で副官の言葉を遮った。その声には感情の波起がなく、ただ冷徹な鉄のような響きがあった。
「このオルテン砦の指揮権は私にある。若い兵士たちが多少血気に走ろうと、それは敵国の脅威に対する忠義の裏返しだ。外部の者に頼るような弱みを見せてどうする」
「おや、忠義ね」
部屋の開けた空間へ歩み出ながら、ロッソは外套のポケットに片手を突っこみ、くすりと笑った。
「部下に命を狙われている城主の言葉にしては、少々見栄が過ぎるんじゃないのかな、アルベリック将軍?」
「口を慎め、旅人」
将軍の視線が鋭くロッソを射抜く。
「私はこの要塞を半世紀守り抜いてきた。ヴァルターが何を考え、何を望んでいるかなど、私が誰よりも理解している。奴はただ、この国を守りたいのだ。やり方が些か苛烈で、幼いというだけに過ぎん」
ロッソは将軍の言葉に反論せず、優雅な足取りで暖炉の傍らへと近づいた。そして、石造りの暖炉の縁に視線を落とす。そこには、赤々と燃える薪の脇に、灰になりかけて焦げついた羊皮紙の小さな破片が転がっていた。かすかに見えた文字は、隣国の公的な書式で使われる独特の印章の痕跡だ。
「……なるほど。言葉を濁す理由は、部下への慈悲だけではないというわけだ」
ロッソの言葉に、将軍の眉が微かに動いた。
「何の話だ」
「君は彼らに弁明していない。ヴァルターたちが『臆病な日和り』だと君を詰問し、突き上げてきた時、君は一度たりとも真実を語って説得しようとはしなかった。なぜなら、君が裏で進めている『隣国との極秘の和睦交渉』の存在を明かせば、血気走った若手兵士たちが激昂し、交渉そのものを力尽くで台無しにしかねないと分かっているからだ」
「……!」
バルテル副官が息を呑んだ。将軍は無言のまま、ただ不気味なほど強く唇を噛み締めている。
ロッソは確信を込めて言葉を続けた。
「君は一人で抱え込み過ぎているのだよ、アルベリック将軍。隣国との平和協定を成立させ、この無用な流血を終わらせるという悲願をね。だが、過激派の暴動を恐れるあまり、君は完全に孤立を選んだ。部下たちから『売国奴』『臆病者』という蔑称を投げつけられながらも、固く口を閉ざし、ただ協定が正式に結ばれるその時を耐え忍ぼうとしている」
「……余計な口を挟むなと言ったはずだ」
将軍の声が低く震えた。だが、それは怒りからではなく、己の最も触れられたくない核心を看破された者の揺らぎであった。
「お前に何がわかる。戦場で散っていった何千という兵たちの無念が……! これ以上の犠牲を出さぬためなら、私はどんな汚名でも着る。ヴァルターに蔑まれようと、私一人が悪者になれば済むことだ」
「いいや、済まないね」
ロッソは冷ややかに言い放った。
「君のその不器用な犠牲精神こそが、ヴァルターという青年の焦躁に拍車をかけているのだから。言葉のない沈黙は、時に相手にとって最大の拒絶であり、背信に見える。君が真実を隠せば隠すほど、あの青年は『自分たちこそが国を救う唯一の存在だ』という狂信的な大義名分を強めていく」
その時、静観していた少女ユキが、すっと前へ踏み出した。ユキの瞳は将軍の身に纏う衣服の、ある不自然な膨らみを見つめている。
「……重いものが、胸の奥にある」
ユキの静かな声に、将軍は咄嗟に右手を胸元へ当て、身構えた。
ロッソはその動作を見逃さなかった。芝居がかった手つきで顎を撫で、口元に笑みを浮かべる。
「ほう……右手を不自然なほど離そうとしない。軍衣の懐に隠しているのは、今夜の舞台の『鍵』だな?」
「……」
「西城壁の石造り砲門室。あの重厚な二重扉を開閉するための、唯一の鋳鉄の鍵だ」
ロッソの指摘に、アルベリック将軍は諦めたように深く息を吐き、懐から太く重々しい鉄の鍵を半ば覗かせた。
「……ヴァルターは今夜、あの試作大砲の極秘検分と称し、私に発砲許可を迫る気だ。あの部屋の二重扉は、この鍵がなければ内側からも外側からも開閉できん。私が鍵を持っていれば、奴らは勝手に大砲を引き出し、撃つことはできんのだ」
「だからこそ、君は自分からその毒虫の巣窟へと足を踏み入れる気か」
ロッソの言葉は冷酷なまでに鋭かった。
「鍵を渡さず、発砲を拒み続ければ、追い詰められたヴァルターが何をするか……君ほどの軍人が理解していないはずがない。奴は交渉を諦め、君を殺してでも鍵を奪おうとするだろう」
「……その時は、私の命数がそこまでだったというだけのこと」
将軍は静かに鍵を懐深くへ戻すと、決意に満ちた目で二人を睨み据えた。
「私は引き下がらん。あの部屋でヴァルターと対峙し、最後の最後まで発砲を拒み続ける。協定が結ばれる刻限まで、私が時間を稼ぎ切ってみせる。……バルテル、この部外者たちを連れて部屋を出て行け」
「将軍……! そのような覚悟など——!」
縋り付こうとするバルテル副官の肩を、ロッソは片手で制した。
「無駄だよ、バルテル副官。己の美学に酔い痴れた老将軍の耳には、いかなる正論も届かない。自分が犠牲になることで全てが収まると思い込んでいる典型的な悲劇のヒーローだ」
ロッソは呆れたように肩をすくめると、冷ややかな眼光を将軍に向けた。
「いいだろう、アルベリック将軍。君の命懸けの『時間稼ぎ』とやらを見届けてやるとしよう。だが覚えておきたまえ。時間というものは、往々にして愚者の思い通りには刻まれないものだ」
ロッソは踵を返し、ユキと共に執務室の重い扉へと歩みを進めた。背後で、アルベリック将軍が暖炉の火を見つめたまま、微動だにせず佇んでいる気配を感じながら。
廊下へ出ると、冷たい城壁の風が二人の髪を揺らした。ユキがそっとロッソの外套の裾を引っ張る。
「……ロッソ。あの鍵、血の匂いがついてる」
「ああ。老将軍の不器用な沈黙と、青年の暴走する正義感。……ネロ商会が仕掛けた不快な舞台の幕が、いよいよ上がろうとしている」
ロッソは真鍮の懐中時計を取り出し、パチンと蓋を開けた。刻々と刻まれる秒針の音が、惨劇の刻限が迫っていることを告げていた。
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