1:要塞の異物
石組みの回廊を吹き抜ける風は、肌を刺すほどに冷たかった。
要塞『オルテン砦』の内部は、外壁の重厚な威容とは裏腹に、不穏な熱気に満ち満ちていた。松明の炎が煤を上げて揺れる暗い通路では、すれ違う兵士たちが重苦しい沈黙を守り、互いの歩調を伺うように視線を交わしている。革の胸当てをつけた若い兵士たちの瞳には、長年の対峙が生んだ疲弊ではなく、どこか異様な期待と興奮の色が宿っていた。
「見てごらん、ユキ。戦を恐れるあまり正気を失った者たちが、今や戦そのものを熱望している。まるで毒を食らって乾きを癒そうとする重病人のようだ」
ロッソは朱い外套の裾をひるがえし、石畳を静かに踏み鳴らしながら呟いた。
「……空気の味が、へん」
寄り添って歩く少女ユキが、小さく鼻を鳴らして首を振る。
「焦げた石と、湿った金属。……この城壁にはないはずの、冷たくて太い呼吸が聞こえる」
「ああ。ネロ商会という怪しげな行商人が持ち込んだ『異物』の存在感だ。古い歴史の隙間に、土足で突っこまれた鉄の塊か」
二人が西城壁へと続く中庭に足を踏み入れると、その異物は兵士たちの輪の中心に鎮座していた。
それは、現代の戦場にはあまりにも異質で、不自然なまでに滑らかな表面を持つ、巨大な鋳鉄製の筒であった。木製の頑丈な台車に据え付けられたその砲身は、まるで深く黒い眼光で空を睨みつける怪物のようだ。傍らの木箱には、異臭を放つ黒い粉末と、拳大の滑らかな鉄球が整然と並べられている。
「見ろ! これさえあれば、隣国の軍势など恐れるに足らん!」
「将軍は日和っているが、ヴァルター隊長がおられる。この力が我らにある限り、我が国は不滅だ!」
群がる若い兵士たちの熱狂的な歓声。その輪の中心で、一人の若い将校が胸を張り、自慢げに巨大な鉄の筒を撫でていた。
青年将校ヴァルター。
引き締まった体躯に、鋭い眼光を宿した男。その瞳には過剰なまでの使命感と、一歩間違えれば狂気へと転じる青臭い熱が渦巻いている。
「そこまでだ、客人たち。見物なら他所でやれ」
ロッソたちの足音に気づいたヴァルターは、不機嫌そうに振り返り、腰の剣の柄に手を置いた。その動作は洗練されているが、あまりに過敏だった。
「ほう……見慣れぬ顔だな。部外者がこの西城壁に何のご用だ。ここは今、要塞内でも最も重要な極秘の軍備領域だぞ」
「なに、通りすがりの旅人だよ。少しばかり風変わりな『鉄の管』が見えたものだからね」
ロッソは芝居がかった手つきで肩をすくめ、優雅な足取りで大砲へと近づいた。ヴァルターの側近たちが剣に手をかけ、威嚇するように一歩前へ踏み出すが、ロッソは意にも介さず、不敵な笑みを浮かべたままその黒い砲身を観察する。
「素晴らしい代物だろう?」
ヴァルターの唇に、誇らしげで、どこか焦燥の滲む笑みが浮かんだ。
「これはネロ商会という高潔な商人から譲り受けた、救国の兵器だ。この筒にあの黒い粉を詰め、火を放てば、どんな頑強な城門も、敵の重装騎兵も一瞬で塵と化す。神の雷を掌に収めたようなものだ」
「神の雷、ね」
ロッソは冷ややかな目を砲身に向けた。
「過剰な力というものは、時に持ち主の器を上回り、その精神を腐らせる毒となる。青年将校どの、君はこの巨大な塊を手に入れて、心底安らぎを得られたのかな?」
ヴァルターの顔から笑みが消え、急激に殺気が跳ね上がった。
「……何が言いたい、旅人」
「君の瞳の奥にへばりついている焦燥が見えると言っているのだよ。敵の脅威を過剰に恐れるあまり、手にした不自然な力にすがりつき、今にも自分の手で撃ちたくて震えている」
「黙れ!」
ヴァルターは一歩を踏み出し、ロッソの胸元を射抜くような鋭い視線を投げつけた。
「お前に何がわかる! 隣国は我が国を呑み込もうと、刻一刻と爪を研いでいるのだ! それなのに……あのアルベリック将軍はどうか! 『和睦』などという甘い言葉で自分を偽り、この圧倒的な兵器の使用すら固く禁じている! 我が国を売る気かと疑いたくなるほどの怯懦だ!」
ヴァルターの拳が激しく震えていた。そこにあるのは純粋な悪意ではない。国を守らねばならないという強い義務感と、「今叩かなければ自分たちが滅ぼされる」という妄想的な恐怖が混ざり合った、破滅的な全能感であった。
「和睦だと? 笑わせるな! 敵が頭を下げてくるはずがない! この力を見せつけ、敵の本陣を徹底的に打ち砕いてこそ、真の平和が訪れるのだ。邪魔をする者が誰であろうと……俺は我が国を救うため、やるべきことをやる」
ヴァルターの放った言葉の裏にある「事実誤認」を、ロッソの冷徹な頭脳が素早く拾い上げる。
(なるほど……敵の脅威に対する過剰な被害妄想。そして、この過剰な異物がもたらした全能感。それらが彼の思考を完全に歪めている)
青年は信じ切っているのだ。自分こそが時代を導く英雄であり、和睦を模索するアルベリック将軍は国を危険に晒す愚者であると。ネロ商会が仕掛けた不快な舞台装置の上で、彼は喜んで「粛清者」の役を演じようとしている。
「今夜、西城壁の石造り砲門室で、この試作大砲の最終検分が行われる」
ヴァルターは冷酷な笑みを浮かべ、黒い砲身を静かに叩いた。
「将軍にも来てもらう。そこで俺は最後の決断を迫るつもりだ。……もし将軍が最後まで怯え続け、この兵器の開放を拒むというなら、その時は——」
ヴァルターはそれ以上言葉を続けず、背を向けた。
「立ち去れ、旅人。今夜の検分が終われば、この要塞の歴史は新しく塗り替えられるのだからな」
遠ざかっていく青年将校とその兵士たちの背中を見送りながら、ロッソは小さく息を吐き出した。
「救世主気取りの愚か者か。自分の握っている糸が、誰の手によって引かれているかも知らずに」
「……ロッソ、あの鉄の筒、嫌な音がする」
ユキがそっとロッソの袖を引っ張った。
「動いちゃいけない歴史の歯車が、あの中で無理やり回されてる」
「ああ、ネロの不快な悪戯だ。……さあ、次は『沈黙を守る将軍』の顔を見に行こうか。彼がなぜ、そこまで頑なに鍵を隠し続けるのかを確かめるためにね」
冷たい風が吹き抜ける中、ロッソとユキは、将軍の執務室がある本丸の階梯へと足を向けた。
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