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プロローグ:硝煙の依頼

 凍てつく北風が、巨岩を削り出して作られた国境要塞『オルテン砦』の黒ずんだ石壁を激しく叩いていた。

 天を突く石造りの見張り塔からは、かすかに焦げた硫黄と鉱物が混ざり合ったような不気味な異臭が漂い、絶え間なくたなびく灰色と黒の煙が寒空へと溶けていく。半世紀以上、隣国との緊迫した境界線を睨み続けてきたこの要塞は、今や外敵の脅威ではなく、その内側に渦巻く不調和な熱気によって内側から爆発しようとしていた。


「風が冷たいね、ユキ。血と……何やら嗅ぎ慣れぬ不快な硫黄の匂いを吹き飛ばすには、少しばかり威力が足りないようだが」

 朱色の外套の襟を立て、探偵ロッソは吐く息を白く染めながら石畳を踏みしめた。その鋭い眼光は、要塞の重厚なアーチ門をくぐり抜ける兵士たちの、ただならぬ眼差しを捉えている。誰もが言葉を失い、硬く口を結び、腰の剣の柄に指をかけたまま、互いを盗み見るようにすれ違っていた。戦場の緊張感ではない。同じ旗を掲げる仲間同士が抱く、濃密な不信と殺意の気配だ。

 ロッソのすぐ後ろを、白い髪を風に遊ばせた少女ユキが静かについてくる。感情を削ぎ落としたような無垢な瞳で周囲を見回すユキは、ロッソの外套の裾をそっと掴んだ。

「……ここ、熱い。石の奥で、異質な何かが息をしてる」

「ああ。歴史の歩みに合わない『異物』が持ち込まれた場所特有の、胸の悪くなる熱気だ」

 ロッソは短く鼻で笑うと、要塞の西側に位置する古びた石造り兵舎の影へと足を進めた。松明の光も届かない暗がりの中に、身を潜めるようにして立っている一人の老兵の姿があったからだ。


 擦り切れた軍衣を纏い、深い皺の刻まれた顔を焦躁で歪ませているその男こそ、今回の依頼人であり、要塞の老副官バルテルであった。

「来てくれたか……時間遡行探偵、ロッソ殿」

 バルテルはかすれ声で囁き、藁をも掴む思いかロッソの手を握りしめた。その手は氷のように冷たく、だが激しく震えていた。

「手紙に書いた通りだ。この要塞はもう限界だ。一刻の猶予もない。……今夜にも、この城壁の内側で決定的な惨劇が起きる」

「落ち着きたまえ、バルテル副官」

 ロッソは芝居がかった手つきで老人の手を優しく解くと、自らのポケットから真鍮の懐中時計を取り出し、パチンと蓋を開けて見せた。規則正しい刻印の音が、暗闇に静かに響く。

「私は死体が転がってから捜査を開始する無能な代官や衛兵とは違う。惨劇が起きる前に、その原因となる『事実誤認』を解体するためにここへ来た。まずは、その引き金を引こうとしている愚か者の名を聞こうか」


 バルテル副官は固く目を閉じ、深く息を吐き出してから言葉を絞り出した。

「……青年将校、ヴァルターだ。優秀だが、血気が勝ちすぎている若者だ。そしてもう一人……私の仕える要塞司令官、アルベリック将軍だ」

 バルテルの口から語られた要塞の現状は、まさに破局寸前の均衡であった。

 長年この要塞を守り抜いてきたアルベリック将軍は、隣国との不毛な流血を終わらせるため、密かに外交交渉を進めていた。これ以上の不必要な犠牲を避け、平和的な国境協定を結ぶ——いわゆる「穏健派」の指導者である。

長年積み重ねられた戦いの傷痕を知る将軍だからこその不戦の決断。しかし、その意思を「保身と怯惰」だと激しく糾弾するのが、急進派の青年将校ヴァルターであった。隣国の脅威に過剰な恐怖と敵意を抱くヴァルターは、「今こそ先制攻撃を仕掛け、敵を壊滅させるべきだ」と主張し、血気盛んな若手兵士たちを扇動して要塞内で一大勢力を築き上げていた。


「将軍とヴァルターの対立は、日を追うごとに深刻化していた。だが……事態が完全に狂い始めたのは、ほんの数日前のことだ」

 バルテル副官の顔に、恐怖の色が濃く影を落とす。

「ある謎の商人——『ネロ商会』と名乗る者たちが、極秘裏に要塞へ巨大な塊を持ち込んできたのだ。……あれは、人が作っていい代物ではない」

「ネロ商会、か」

 ロッソの瞳の奥で、冷徹な光が妖しく揺らめいた。またしても現れた、歴史の影で暗躍する怪しい商人の名。

「その品とはどんなものだ?」

「信じられんほど巨大な、鋳鉄製の筒……彼らは『試作大砲』と呼んでいた。黒い謎の粉末に火をつけることで、遠くの山肌すら一瞬で吹き飛ばすほどの凄まじい衝撃を生み出すという。……ヴァルターはその圧倒的な力に魅せられてしまったのだ」

 バルテルは痛切な想いで拳を握りしめた。

「手にしてはならない力を得たヴァルターは、完全に正気を失いつつある。『この力があれば敵など一捻りだ。和睦を口にするアルベリック将軍は国を売る腰抜けだ』とな。今夜、西城壁の石造り砲門室で、その巨大な筒の極秘検分が行われる。ヴァルターはそこで将軍に使用許可を迫り、拒否されれば……将軍を殺してでも指揮権を奪い、開戦の火蓋を切る気だ!」


 ロッソは静かに顎を撫でながら、バルテルの言葉の裏にある論理を組み立てていく。

 過剰な力を手にしたことによる全能感。そして「今叩かなければ自分たちが滅ぼされる」という妄想的な恐怖。それらがヴァルターという青年の正気を狂わせ、恩人であるアルベリック将軍の殺戮という惨劇へと突き動かそうとしているのだ。

「ふむ……概ね状況は理解できたよ。ヴァルターという青年の頭の中には、ひどく都合のいい妄想が居座っているらしい」

 ロッソは唇の端を歪め、冷ややかな笑みを浮かべた。

「いいだろう、バルテル副官。君の依頼を引き受けよう。私とユキがその検分に同席し、愚かな青年が過ちなぞ犯さないよう、その歪んだ思考を消去してやる」

「おお……感謝する、ロッソ殿! どうか、どうか将軍を……そしてこの要塞を救ってくれ!」

 バルテルが深く頭を下げるのを横目に、ロッソは隣に立つユキへと視線を向けた。ユキは言葉を発することなく、ただじっと西城壁の重厚な影を見つめている。


「行こう、ロッソ。……時間が、もう濁り始めている」

「ああ。ネロ商会が仕掛けた不快な舞台劇だ。最高の結末に書き換えてやるとしよう」

 冷たい硫黄混じりの風が吹き荒れる中、探偵と少女は、惨劇の舞台となる西城壁へと静かに歩みを進めた。


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