エピローグ:真鍮の残痕
夜が明け、山頂を支配していた荒涼とした嵐は嘘のように去っていた。
観測塔の吹き抜けから見上げる空は、濁りのない薄青色に染まり、朝の澄んだ光が石造りの天頂館を優しく包み込んでいる。昨夜の咆哮が幻であったかのように、風は穏やかで、遠くの山並みからは鳥の囀りが微かに響いていた。
山麓へと続く切り通しの土砂崩れは、麓から駆けつけた作業隊の手によって無事に押し開かれ、馬車が通れるほどの道が復旧していた。
館の正面広場には、麓の警察が手配した護送馬車が停車している。
固い縄で両手を縛られた助手のエルハルトは、青白い顔を項垂れさせたまま、力なく連行されていくところであった。彼の瞳から狂熱の光は完全に消え失せ、あとに残されていたのは、己が犯そうとした恐ろしい過ちの重さに打ちのめされた、底知れぬ徒労と虚無だけであった。
「……ヨハネス叔父さん」
石造りの玄関前で、居候の青年——テオが、老教授ヨハネスの傍らに佇んでいた。テオの表情には微かな痛ましさが残っていたが、その身には一筋の傷もなく、朝日に照らされて澄んだ瞳をしている。第一時間軸で流された血は、この世界線のどこにも存在しない。
「テオ……本当に、無事でよかった。私の不徳で、お前を恐ろしい目に遭わせてしまったな……」
ヨハネスはそう言うと、静かに目を閉じ、深く頭を下げた。
彼らの視線の先には、朱色のコートを風になびかせ、立ち去ろうとしている二人の旅人の姿があった。探偵ロッソと、その隣に並ぶ少女ユキである。
「ロッソ殿。あなた方には、どれほど感謝を捧げても足りません」
ヨハネスが歩み寄り、深く刻まれた皺を震わせながら声をかけた。
「あなたがあの時、観察の矛盾を突き、エルハルトの妄想を打ち砕いてくださらなければ……私は大切な友の息子を失い、弟子を殺人の罪で失うところでした。学問を志す者として、物理的な視界の罠を見抜けなかった自分が恥ずかしい限りです」
「感謝なら不要と言ったはずだよ、ヨハネス教授」
ロッソは脚を止め、振り返ることなく冷ややかに言い捨てた。
「私は不純な悪夢を解体したまでに過ぎない。……それより、あの『神の眼』とやらはどうしたのかね?」
「……塔の最上階から引き下ろし、地下の重厚な石室へと固く封印いたしました」
ヨハネスの表情が重々しく引き締まる。
「あの器械は……あまりに鋭すぎました。肉眼では見えぬ領域を映し出す過剰な性能が、知性を誇る人間の心を狂わせる毒となった。私が生涯をかけて観測してきた四分儀や星盤の示す光こそが、人の身の丈に合った誠実な世界の姿だったのだと、痛感いたしました。二度と、あの望遠鏡を覗く者は現れさせません」
「賢明な判断だ」
ロッソは短く頷くと、傍らのユキの手を優しく取った。ユキは静かに老教授たちへ一礼し、ロッソの歩みに合わせて足を踏み出した。
二人は、待たせてあった四輪馬車へと乗り込んだ。
御手が手綱を引くと、車輪がガラガラと賑やかな音を立てて泥道を転がり始める。遠ざかっていく天頂館の古い石造りの塔を見やりながら、ロッソは座席の背もたれに深く身を預けた。
「……ネロ商会、か」
ロッソの低く呟いた声が、馬車内に小さく響いた。
今回の事件の真の凶器。それは助手の胸に芽生えた殺意そのものではなく、あの時代錯誤な高倍率の望遠鏡——ネロ商会が歴史の隙間に落とし込んでいった『過剰な異物』であった。
歪みのない硝子杯、純白の精製砂糖、そして不完全な欠陥を孕んでいたものの、高精細なレンズ。それらはすべて、この時代の技術体系を遥かに超越した文明の暴力であり、人間の歪んだ狂信を煽るための冷酷な罠であったのだ。
(あいつらは……単に珍しい品を商っているわけではない。時代にそぐわない『過剰』を投下することで、人々の認識に狂信を引き起こし、世界を狂わせようとしている)
ネロ商会の真の目的は何なのか。彼らが歴史の各地に撒き散らしている暗雲の不吉な広がりを感じ取り、ロッソの冷徹な瞳が鋭く細められる。
「……ロッソ」
隣に座るユキが、そっとロッソのコートの袖を引っ張った。
ロッソはハッとして視線を落とした。ユキの透き通るような瞳が、心配そうに探偵の顔を見つめている。時間が書き換えられ、第一時間軸の記憶が同期したロッソの胸には、いまもあの暗闇の中で激痛に悶えていたユキの姿が痛烈に焼き付いていた。
「……なんだい、ユキ?」
ロッソは手袋をはめた手で、ユキの小さな手を柔らかく包み込んだ。自責と慈愛の交ざり合った温もりが、手袋越しに伝わっていく。
「……もう、痛くないよ」
ユキは小さく微笑み、ロッソの膝の上にそっと頭を預けた。
時空を越えて過去へと干渉を送るたび、少女の身体に叩き込まれる途方もない負荷。けれど、事件が未然に防止され、不純な死が過去の底から消去されたいま、ユキの表情には安らかな平穏が戻っていた。
「……分かっているさ。だが、二度とお前にあんな思いはさせないと、心に決めているのだよ」
ロッソはユキの柔らかい髪を指先で優しく撫で、車窓の外へと視線を向けた。
馬車は切り立った崖道を下り、眩しい太陽の光が差す山麓へと向かって走っていく。
頭上に広がる青空には、過剰なレンズ越しに見えた不吉な『神の血痕』など、どこにも存在していなかった。あるのはただ、澄み渡った本物の光と、静かに紡がれていく正しい時間の営みだけであった。
過剰な文明がもたらした不気味な予言の断片は、探偵の絶対の論理と、二人を繋ぐ深き絆によって完全に隔離され、歴史の彼方へと消え去ったのだった。
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