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10:同期する記憶

 観測室を覆う緊迫した空気が、潮が引くように霧散していった。


 床に転がった儀式用の小刀が、不気味な鈍い光を放っている。膝をついた助手のエルハルトは、己の手を茫然と見つめたまま微動だにしない。彼を支配していた「世界の崩壊を防ぐ聖者」という高潔な錯覚は、ただの「不良品のレンズについたゴミに踊らされた人殺し」という惨めな現実によって、根底から撃ち砕かれていた。


「テオ……テオ、無事か……!」


 老教授ヨハネスが涙を流しながら、純朴な青年テオの肩を力強く抱きしめた。


「はい、おじさん……僕は大丈夫です。何が起きたのか、まだよく分かりませんが……」


 テオは困惑しながらも、実の兄のように慕っていたエルハルトの無残な姿を見つめ、痛ましそうに息を吐いた。殺意は完全に消滅し、犠牲になるはずだった命は未然に救われたのだ。


 その瞬間であった。


 キィン……と、世界そのものがガラスのように微かに響くような、不可思議な高音が観測室の空間を駆け抜けた。


 吹きすさぶ風雨の勢いが一瞬だけ止まり、石壁の影が歪む。歴史が書き換えられ、時間の因果が新たな「過去から繋がる現在」へと収束していく絶対の兆候。


 観測室の中央で朱色の外套を翻して立っていたロッソが、突然、くっと深く額を押さえた。


「……っ……!」


 彼女の冷徹な脳脳へと、濁流のごとき記憶の奔流が急激に流れ込んできた。

 それは、この時間軸のロッソが経験していないはずの、絶望的な『第一時間軸の記憶』——未来の記憶であった。


(……そうだ。私は……失敗したのだ)


 頭脳の中で、存在しなかったはずの惨劇の光景が鮮烈に再生される。

子刻の打鐘とともに響いた絶叫。駆けつけた観測タワーの破られた扉。胸を刺し貫かれ、石畳の目地に溢れ出る鮮血の中で冷たくなっていたテオの遺体。老教授の痛痛しい号泣。そして、返り血を浴びて神の調和を叫んでいたエルハルトの狂笑——。


 そして何よりも、探偵としての己の不覚のツケを払い、時間遡行の媒介として凄まじい激痛と負荷に顔を歪ませていた少女——ユキの姿。


『すまない……すまない、ユキ……!』


 記憶の中の自分が、冷え切ったユキの身体を抱きしめ、痛切な自責の念とともに乞うた謝罪の温度。世界線を書き換えるためにユキの幼い身体を削らせてしまったという激しい敗北感と痛ましさが、脳内で完全に同期し、いまのロッソの胸を鋭い刃となって貫いた。


「……ふぅ……」


 ロッソは深く、深く息を吐き出し、ゆっくりと手袋をはめた手を額から離した。

彼女の瞳に、すべての因果を読み解き、惨劇を回避し得た探偵の絶対の光が戻る。


 目の前には、胸を刺されることなく、生きてヨハネスに抱きしめられているテオがいる。

狂信に囚われて惨劇を引き起こすはずだったエルハルトは、一滴の血も流さぬまま、己の過ちに打ちのめされて罪人として沈黙している。


 不純な死は未然に防がれ、惨劇の過去は世界の底から綺麗に消去されたのだ。


「……見事な手際でした、ロッソ殿」


 ヨハネス教授がテオを背後に庇いながら、深々と頭を下げた。その顔には、愛弟子の狂信に対する悲しみとともに、惨劇を救ってくれた探偵への心からの感謝と畏怖が滲んでいた。


「あなたが……あの言葉がなければ、私は大切な友の息子を失い、エルハルトを一生許せぬまま恐ろしい夜を迎えるところでした。天文学の計算ではなく、観察の矛盾を突いて彼の錯覚を打ち砕くとは……」


「感謝には及ばないよ、ヨハネス教授」


 ロッソは朱色の外套を滑らかに揺らし、いつもの傲慢で冷酷な探偵の表情を作り直した。


「私は不純な悪夢と、美学のない殺意が嫌いなだけさ。……そこの助手の身柄は、嵐が去った後に麓の警備隊へ引き渡すといい。彼が怯えていた神の傷痕など、どこにも存在しなかったのだと……冷たい牢獄の中でじっくり反省させることだね」


「……分かりました。警察が届くまで、彼を地下の保管庫へ拘束しておきます」


 ヨハネスは力なく頷き、空虚になって項垂れるエルハルトの腕を取り、テオとともに観測室をあとにしようとした。


「待ちなさい、教授」


 ロッソの声が制する。彼女の視線は、観測室の中央で鈍い真鍮の光を放つ巨大な望遠鏡へと向けられていた。


「……その器械は、二度と誰にも覗かせないことだ。身の丈に合わない過剰な文明の産物は、人間の小さき理性を容易に狂わせる毒にしかならない。嵐が明けたら、しかるべき方法で処分するか、永遠に封印したまえ」


「……心に刻みます。二度と、このような悲劇の種を館に置くつもりはありません」


 ヨハネスたちは去り、観測塔の最上階には、風雨の音と、ロッソ、そしてユキの二人だけが残された。


 ロッソはゆっくりと振り返り、石畳の隅に静かに佇む少女——ユキへと視線を向けた。


 ユキの顔色はすでに落ち着いており、透き通るような瞳でロッソを見つめている。だが、同期した第一時間軸の記憶を持つロッソには、過去改変の裏でユキがどれほど恐ろしい痛みと負荷に耐えて時間の境界を繋ぎ止めてくれたのか、痛いほど理解できていた。


 ロッソは歩み寄り、ユキの前に片膝をついた。探偵としての冷酷な態度はそこにはなく、相棒に向けられる確固たる慈愛と、微かな申し訳なさがその瞳に宿っている。


「……苦しかったろう、ユキ」


 ロッソは手袋を外し、そっとユキの柔らかい頬に手を添えた。


「私の不覚で、お前にまた酷い負担をかけてしまった。……すまなかったね」


 ユキは首を小さく横に振った。そして、ロッソの温かい手に己の掌を重ね、ほんの少しだけ口元を緩めた。


「……ううん。ロッソが……助けたから」


 その一言で、ロッソの胸を苛んでいた自責の念がすっと溶けていく。

ロッソはユキの頭を優しく撫で、ゆっくりと立ち上がった。


「さあ、降りようか。過剰な器の悪夢は去った。あとは……この嵐が過ぎ去るのを静かに待つとしようじゃないか」


 事件は未然に解決された。過剰な文明がもたらした狂信の影は、探偵の冷徹な論理と、二人を繋ぐ絆によって完璧に消去されたのだった。


感想いただけると狂喜乱舞しますので感想くださいください

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