9:狂信の解体
「触るなと言っているだろう、探偵っ!」
エルハルトの金切り声が、嵐の吹き荒れる観測室に響き渡った。
彼は血走り見開かれた両眼でロッソを睨みつけ、握りしめた小刀の刃先を、護られるテオからロッソへと向け直した。
「その『神の眼』は、選ばれた者だけが聖なる傷を拝むことを許された器だ! 不浄な者が手を出せば、神の怒りが下り、世界の破綻が早まるのだぞ!」
「神の怒り、ね」
ロッソは朱色の外套を風になびかせ、凶器の刃先など存在しないかのように平然と望遠鏡の傍らに立ち続けた。その唇には、氷のように冷たく、どこか愉悦すら含んだ笑みが浮かんでいる。
「神だの天球の破綻だの、威勢のいい大義名分を並べ立てるのは勝手だがね、助手君。君が命を懸けて信じ込んでいるその『絶対の事実』とやらは、あまりに脆く、あまりに滑稽な土台の上に成り立っている」
「何だと……!?」
「教授、そしてそこの哀れな生贄候補の青年。そこに立ち、しっかり目撃するといい。一人の天文学徒が、いかにして無知な狂信者へと堕落したのかをね」
ロッソは固定用の真鍮ネジに指をかけ、カチリと音を立ててロックを解除した。
「やめろ! 何を……何をする気だ!」
エルハルトが襲いかかろうとした瞬間、ロッソは冷酷な一言を叩きつけた。
「動きなさい、助手君。君がその刃を半インチでも動かした瞬間、君が命を捧げようとしているその望遠鏡を、この台座ごと床へ叩き落として粉砕する」
エルハルトの動きがピタリと止まった。彼にとって、あの望遠鏡は神の真実を告げる絶対の聖遺物。それを破壊される恐怖が、狂熱の足を一瞬だけ縛り付けたのだ。
その隙に、ロッソは重厚な真鍮の筒をゆっくりと横へスライドさせた。
筒が向いた先は、予言の星が輝く天頂ではない。吹きつける暴風雨によって分厚い暗雲が垂れ込め、星の光など一光すら届かない「漆黒の暗闇の空」であった。
「さあ、覗いてご覧、助手君」
ロッソは接眼レンズを指差し、あざけるように顎をしゃくった。
「な……何を馬鹿なことを……! 星の配置から外れた暗闇など覗いたところで、神の予言など見えるはずが——」
「いいから覗きなさい」
拒絶を許さぬ探偵の威圧感に気圧され、エルハルトは引き寄せられるように接眼レンズへと顔を近づけた。半信半疑のまま、筒の奥の暗闇へと意識を集中させる。
その瞬間、青年の身体がガタリと激しく震えた。
「な……な、んだ……これは……!?」
エルハルトの顔から血の気が失われていく。
星などひとつも見えない、完璧な漆黒の闇。だが——その視野の右上には、彼が『神の血痕』と呼んで恐れていたあの不吉な赤く滲んだ影が、先ほどと全く同じ形、全く同じ濃さで、くっきりと浮かび上がっていたのだ。
「馬鹿な……! なぜだ!? 星の座は移動したはずだ! 予言の配置からは外れているのに……なぜ神の傷痕がそこに留まっている!?」
「フフ、動揺するにはまだ早いよ」
ロッソはさらに微動ネジを緩めると、真鍮の筒を豪快に下へと傾けた。
筒の先が向いたのは、空ではない。観測タワーを支える、不透明で黒ずんだ「石造りの壁」であった。暴風雨に濡れた無機質な石肌が、筒の先を完全に塞ぎ込んでいる。
「もう一度、覗いてみなさい」
「ひっ……! い、嫌だ……見たくない……!」
「覗くのだ、狂信者!」
ロッソの声が雷鳴のように観測室を打ち振るった。エルハルトは悲鳴を上げながら、力尽きたように再び接眼レンズへべったりと顔を押し付けた。
そして——彼は見た。
視界を完全に遮る不透明な石壁の闇。その中心——「視野の右上」のまったく同じ位置に、その不吉な影は微動だにせず、嘲笑うかのように留まり続けていた。
「あああ……ああああああっ!?」
エルハルトは頭を抱え、獣のような絶叫を上げて石畳の上へと転がり落ちた。
「なぜだ……! なぜ壁を見ても、闇を見ても、神の血痕がそこにある!? 天が……天の傷が世界を侵食し、この館の壁にまで滲み出しているというのか!?」
「どこまでお目めでたい頭をしているのだい、君は」
ロッソは冷酷な失笑を漏らし、朱色の外套の裾を優しく払った。
「天が滲み出ているのではない。簡単な物理の初歩さ。……その不吉な影は、最初から『筒の中』にあったのだよ」
ヨハネスがハッと息を呑み、震える声で尋ねた。
「つ、筒の中……!?」
「そうさ、教授。この望遠鏡の角度をどう変えようと、視野のまったく同じ場所に影が残る。それは背景の星々や天体現象のせいではない。観察を行っている器の側——この高倍率な硝子そのものに刻まれた物理的な欠陥だ」
ロッソは手袋をはめた指先で、望遠鏡の対物レンズの縁を小突いた。
「ネロ商会と名乗る怪しげな行商人が持ち込んだ、時代外れな過剰の産物。精巧に見えるこの器械も、完璧などではなかった。職人が硝子を研磨する過程で生じた微細な内部の傷、あるいは不純物の付着……。それが高倍率で拡大されたことで、赤い光の屈折を生み出し、視野の隅に滲み出していたに過ぎない」
「な……傷……? レンズの……欠陥……?」
石畳に膝をついたエルハルトが、うわ言のように呟いた。
「そうだ、助手君」
ロッソは青年の前に歩み寄り、冷たい眼差しで見下ろした。
「完璧な神の世界が壊れかけているのではない。神の調和が破れたのでも、世界が終わりを迎えるのでもない。君は……ただの『不良品のレンズについたゴミ』を神の予言だと勘違いしたのだ」
「嘘だ……嘘だぁぁぁっ!」
「嘘ではない! 君が命を賭けて崇めていた『神の血痕』の正体は、職人の作業ミスで残された硝子のクズに過ぎない! そして君は、そのくだらない硝子の不具合に欺かれ、世界の崩壊を防ぐという妄想に酔い痴れ、何の罪もない青年を刺し殺そうとした!」
ロッソの冷酷なロジックが、犯人の動機(Why)の核にあった「神聖さ」と「大義名分」を、完膚なきまでに粉砕した。
神の調和を守るためという壮大な大義名分は消え去り、あとに残されたのは、ただの不良品に踊らされ、愚かな人殺しを企てた哀れな道化の姿だけであった。
「あ……あ……あ……」
エルハルトの瞳から狂熱の光が消え去り、底知れぬ虚無と絶望が広がっていく。
彼が握りしめていた凶器——儀式用の小刀が、力なく指先から滑り落ちた。
カラン……と、乾いた金属音が石畳に虚しく響く。
「私は……私は……何を……ただの、硝子の傷のために……テオを……」
世界を救う聖者気取りだった青年は、己の犯そうとした過ちの滑稽さと恐ろしい愚かさに打ちのめされ、己の手を見つめたまま、ガタガタと激しく打ち震えた。動機は完全に解体され、殺意は根底から死滅したのだった。
テオは安堵の息を漏らし、ヨハネスはその場に崩れ落ちて「おお……テオ、無事だったか……!」と純朴な青年を固く抱きしめた。
嵐の風が吹き込む観測室の中で、未然の防止は完璧に達成された。
朱色の外套を風になびかせ、探偵ロッソは膝をつく愚かな青年を見下ろしながら、冷たく、美しく、勝利の微笑みを浮かべていた。
ユキはただそれを見ていた。
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