8:観測塔の対峙
振り子時計の針が子刻——深夜十二時を指し示そうとする直前のことであった。
館を揺らす風雨の勢いは衰えることを知らず、観測塔の石壁を叩きつける泥流の咆哮が、壁の隙間から滑り込む冷気とともに塔内を充たしている。
「ロッソ殿、本当に行くのですか……!? まだ決行の刻限まで時間はあります。なぜ今、塔へ……」
螺旋階段を急ぐ老教授ヨハネスが、息を切らしながら問いかけた。その手には燭台が握られ、橙色の炎が嵐の吹き返しによって今にも消え去りそうに揺らめいている。
「時間の問題ではないと言ったはずだよ、教授」
朱色のコートを風になびかせ、二段飛びで石段を上るロッソの声は、どこまでも冷ややかであった。
「相手の決行時刻を律儀に待ってあげるのは、無能な警察か悪趣味な観劇家だけだ。私たちがここへ来た目的は、事件の事後処理ではない。不純な死そのものを未然に潰すことにある」
ロッソの隣を走るユキは、蒼白だった顔色をいくらか取り戻し、静かに前を見つめていた。未来からの干渉を授けた少女の瞳には、これから起きるべき惨劇を阻止せんとする静かな光が宿っている。
塔最上階へと向かう途中の廊下——給仕用の隠し通路の扉が、微かに開いているのをロッソの鋭い瞳が捉えた。
(……フフ、なるほどね。正門の階段を警戒されていようと関係ないというわけだ。奴はこの隠し通路を使い、純朴な青年を言葉巧みに誘い出すつもりだったのだろう)
隠し通路の影から、二つの足音が観測塔の最上階へと向かって上っていく気配が伝わってきた。ひとつは迷いのない、急ぎ足の硬い靴音。もうひとつは、それに疑いもなく従う素朴な足音——。
「そこまでだね、助手君」
最上階の観測室。
天井が開かれた半球状の室内に吹き込む暴風雨の中、ロッソの声が冷たい矢となって石壁に突き刺さった。
「っ……!? な、なぜここに……!」
暗がりの中で立ちすくんだのは、助手のエルハルトであった。
その顔は青白く引きつり、充血した両眼には狂熱の光が宿っている。手には既に凶器が握られており、彼の背後には、何が起きているのか理解できず困惑した面持ちで佇む居候の青年——テオの姿があった。
「エルハルトさん……? 急用に付き合ってほしいと言われてついて来ましたけれど、こんな嵐の夜に……?」
「テオ、そこから離れなさい!」
遅れて部屋に駆け込んできたヨハネスが絶叫した。老教授の視線は、エルハルトがその右手に固く握りしめているものへと向けられていた。
嵐の雷光が一瞬だけ室内を照らし出し、エルハルトの指先から覗く、鋭利に研ぎ澄まされた儀式用の小刀を白々と浮き彫りにする。
「エルハルト……お前、その刃物はなんだ……!? まさか……本当にテオを……!」
「来ないでください、教授!」
エルハルトは小刀を構え、叫び声を上げた。その声には、己の罪を恐れる者の怯えなど微塵もなく、あるのは不可避の運命に殉じようとする絶望的な狂信だけであった。
「予言の星が……神の天頂へと巡り来る刻限が間近なのです! もう時間がない! 邪魔をしないでくれ!」
「正気を失っているのはお前だ、エルハルト!」
ヨハネスの叫びに、エルハルトは血走った目を剥いてかぶりを振った。
「狂っているのは私ではない! 世界のほうだ! あの『神の眼』を見ただろう!? 完璧であるはずの天球に、あってはならない血の傷痕が刻まれているんだ! 神の調和は破れ、世界の崩壊はすでに始まっている! この地に満ちる不純を祓い、あの異邦の青年——テオの生命を捧げなければ、傷は塞がらない! 世界のすべてが崩壊して散ってしまうんだ!」
エルハルトは狂ったように叫びながら、部屋の中央に鎮座する真鍮製の巨大な望遠鏡を指差した。
「私は彼を殺したいのではない! 世界を救うための聖なる犠牲として、彼の命を悼んでいるのだ! なのに……なぜ分かってくれないんだ!?」
テオは青ざめ、己へ向けられた凶器と絶望的な宣告に言葉を失って震えていた。長年実の兄のように接してきたエルハルトが、本気で自分を世界の犠牲として殺めようとしている——その事実の重さに押し潰されそうになっていた。
冷たい風雨が観測室を吹き抜け、緊迫した沈黙が場を支配する。
だが、その張りつめた死の気配の中へ、朱色のコートをなびかせた探偵が、あまりに優雅に、そして滑らかに足を踏み入れた。
ロッソは凶器を構えるエルハルトを制するように、テオの前に立ち塞がった。彼女の唇には、嘲るような薄笑いが浮かんでいる。
「神の世界を救うための聖なる生贄、ね。……実に大層で、不純な大義名分だ」
「退け、探偵! お前たちに何が分かる! あの筒の向こうに見える『神の血痕』は絶対の事実だ! 肉眼しか知らぬ愚者どもには見えぬ、悲鳴のような現実なのだぞ!」
「神の血痕、か」
ロッソはエルハルトの叫びを意に介さず、朱色の袖から伸ばした手袋をはめた指先で、望遠鏡の冷たい真鍮の筒を優しく撫でた。
(『天の血痕に、闇を重ねろ』……)
ユキの口を通じて届けられた「一言」が、ロッソの脳裏で静かに共鳴する。
狂信に囚われた男が見つめているのは、空の彼方にある絶対の宿命などではない。彼が信じ込んでいるその傷痕は、彼自身が覗き込んでいる「器」の側にこそ隠されている。
第一時間軸の惨劇の記憶を持たぬ過去のロッソは、現地で提示された手がかりを自力で完全に繋ぎ合わせ、解体のための最終準備を整え終えていた。
「いいだろう、助手君。君がそれほどまでに崇める『神の眼』の真実……いまから私が、その手で証明してあげようじゃないか」
ロッソは望遠鏡の固定用微動ネジに手をかけ、冷たい笑みを深めた。殺意に狂う助手と、恐怖に震える居候、さらに息を呑む老教授の目の前で、論理による狂信の解体が始まろうとしていた。
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