7:受け継がれた一言
嵐が館の壁を打ち鳴らす音が、一瞬だけ不自然に引き延ばされ、やがて元通りの咆哮となって戻ってきた。
一階の石造りの広間。暖炉にくべられた薪が爆ぜ、ゆらめく朱色の炎が壁に掛けられた羊皮紙の星図を不気味に浮かび上がらせている。窓枠の隙間からは冷たい風が滑り込み、卓上の燭台の炎を怪しく揺らしていた。
そこは、第一時間軸において絶望の惨劇が起きる前——子刻の到来までまだ間がある、嵐の夜の「過去」であった。
ホットワインの注がれた異常な透過度のワイングラスと、純白の精製砂糖が載った長卓の傍らで、朱色のコートを羽織った探偵——ロッソは、細い指先で自身の顎をなぞりながら佇んでいた。
過去のロッソには、第一時間軸の記憶は一切存在しない。
テオが胸を刺し貫かれて絶命したことも、観測タワーの木製扉が破られたことも、返り血を浴びて神の秩序を讃えた助手の高笑いも、彼女の頭脳には残っていなかった。彼女にとって、いまはただ依頼人である老教授ヨハネスから事情を聴き終え、館の不気味な過剰さに不快感を抱いた直後の「現在」に過ぎなかった。
だが——。
「……っ……ぁ……」
ロッソの隣で、漆黒の外套を纏った少女——ユキが、突然小さく息を呑んだ。
ユキの透き通るような肌から急激に血の気が引き、紙のように蒼白に染まっていく。彼女は華奢な胸元を両手で強く抱きしめるようにして、その場に膝をつきかけた。
「ユキ……!?」
ロッソは即座に手を伸ばし、崩れ落ちそうになったユキの小さな肩を支えた。掌を通じて伝わってくる少女の身体は、凍りつくように冷たく、そして時空の歪みに触れたかのように激しく強張っていた。
ユキの瞳は焦点を失い、まるで遥か未来の深淵を見つめているかのように虚ろであった。その薄い唇が、呼吸の隙間から微かな音を漏らし始める。未来の探偵が演算し、時間の割れ目を越えて届けられた、たった一つの干渉。
「……あ……っ……『天の……血痕に……』」
「なに……?」
ロッソは眉をひそめ、ユキの小さな唇へ耳を寄せた。
「……『天の血痕に……闇を……重ねろ』……」
掠れた呟きが静かに途絶えると、ユキは深く息を吐き出し、ロッソの腕の中でぐったりと身体の力を抜いた。荒かった息遣いがゆっくりと落ち着き、蒼白だった頬に微かな赤みが戻り始める。
ロッソはユキの頭を優しく撫で、椅子へと静かに腰掛けさせると、己の手袋をはめた指先を見つめた。
(『天の血痕に、闇を重ねろ』……?)
その言葉が、ロッソの冷徹な頭脳に強烈な電撃となって走った。
過去のロッソは、なぜユキが突然その言葉を口にしたのか、その形而上学的な仕組みを知らない。だが、探偵としての彼女の圧倒的な直感と論理的思考回路が、その短文を「事件の核心を突く絶対の手札」として認識していた。
(ユキが『境界』を越えて引き寄せる言葉に、無駄なノイズは一切存在しない。……だとするなら、この一言は何を指し示している?)
ロッソは思考の歯車を猛烈な速度で回転させ始めた。
まず、「天の血痕」。
それは先ほど老教授ヨハネスから聴かされた、狂信に囚われた助手エルハルトの言動と直ちに結びついた。エルハルトは、あの異物——真鍮製の高倍率な望遠鏡でしか見えぬ領域に、神の調和が破れた証である「赤く滲んだ不吉な影」が存在すると主張している。彼はそれを『神の血痕』と呼び、世界の崩壊を防ぐために生贄を捧げようとしているのだ。
(ならば、後半の『闇を重ねろ』とは何だ……?)
ロッソの鋭い瞳が細められる。
天文学徒であるエルハルトは、完璧な調和であるはずの天球に傷がついていると信じ込んでいる。彼は「星」を見て、「天の異常」を恐れているのだ。
しかし、言葉は「闇を重ねろ」と命じている。
(星の輝きを追う視線に対して、あえて『闇』を重ねる……? ……フフ、なるほどそういうことか)
ロッソの唇の端に、氷のような冷たい笑みが滑り込んだ。
(奴は『神の眼』と呼ばれる筒越しに、遥か彼方の天球を見つめているつもりでいる。だが、もしその傷痕が天の事象などではないとしたら?)
思考の跳躍。
観測対象である天体そのものではなく、観察を行っている「道具」への疑念。
(観察者が『神の傷』だと崇めるものを、天球から引き剥がす方法……。星の光が届かぬ真っ暗闇の空、あるいは遮蔽された領域へと筒の角度を向けさせた時、その不吉な影がどう振る舞うか。それこそが、奴の狂信を根底から解体する物理的な試算というわけだね)
記憶はなくとも、手渡された「一言」と現地の手札(ヨハネスの証言、館に存在する望遠鏡、助手の狂信)が結びつき、過去のロッソの中で犯人の動機(Why)を打ち砕くためのロジックが完璧に完成した。
「……ロッソ……?」
意識を取り戻したユキが、不思議そうに探偵を見上げていた。ユキ自身も、自分が何を口にしたのかを覚えてはいない。
「気にするな、ユキ。お前のおかげで……あの哀れな狂信者の『妄信』の引き抜き方が分かったよ」
ロッソは朱色の外套を大きく翻し、力強く立ち上がった。
外の暴風雨はいよいよ凄まじさを増し、子刻の到来を告げる時が近づいている。隠し通路から居候のテオを連れ出し、惨劇の密室を作り上げようとする助手の殺意が、いままさに形になろうとしていた。
「行くよ、ヨハネス教授。観測塔へ」
「えっ……? し、しかしロッソ殿、決行の刻にはまだ間が……」
「相手の都合に合わせて待ってやる理由がどこにあるい? 不純な殺意が芽を吹く前に、その歪んだ芽を摘み取ってあげるのが探偵の仕事だ」
ロッソの瞳に宿るのは、絶対の確信と冷徹な意志。第一時間軸の惨劇の記憶を持たぬまま、過去の探偵は「一言」を手に、狂気の待ち受ける観測塔へと歩みを進めたのだった。
感想いただけると狂喜乱舞しますので感想くださいください




