6:時間遡行の代償
嵐の咆哮と絶望の悲鳴が交錯する観測塔の最上階。
吹き抜けの天井から叩きつける雨は、石畳の上に広がった鮮血を冷たく洗い流し、不吉な赤黒い水たまりを広げていく。息絶えた青年テオを抱きしめて号泣する老教授ヨハネスの叫びも、返り血を浴びて神の秩序を讃える助手エルハルトの狂叫も、いまのロッソの耳には遠い雑音としてしか届いていなかった。
朱色のコートを風雨になびかせ、探偵は冷たい真鍮の望遠鏡の前で静かに佇んでいた。その瞳の奥には、氷のような思考の炎が宿っている。
(……狂信という名の『誤謬』を解体するための手札は、揃った)
ロッソは脳内で、現場に残された物理的な観察結果を冷酷な精度で組み上げていった。
犯人であるエルハルトを殺意へと駆り立てたのは、個人的な怨恨でも利益への執着でもない。「神が創り上げた完璧な世界の崩壊を防ぐ」という、倒錯した大義名分。そして、その狂信の核にあるのは、この時代に存在してはならない過剰な器械『望遠鏡』が提示した、あまりに呆気ない事実誤認——。
過去の自分に必要なのは、複雑な天文学の計算式でも、惨劇を警告する具体的な答えでもない。
過去のロッソが、第一時間軸の記憶を持たないまま現地の手札だけを用い、狂信者の視野を支配する不純物の正体へと自力で思い至るための、思考を真逆へと跳ね返させる一本の『楔』。
(空の彼方を崇める奴の歪んだ視線を、あえて塞ぎ、別の領域へと誘導する言葉……。探すべき真実は天球ではなく、視界を切り取っている器の側にあると気づかせるための抽象……)
ロッソは手袋をはめた指先で額を突き、瞬時に余分な意味を削ぎ落としていった。過剰な説明は時空の伝達において不純なノイズとなる。過去の自分の直感を撃ち抜き、論理を自力で完成させるための、たった一つの概念。
思考の演算は完了した。
だが——その答えに辿り着いた瞬間、ロッソの胸を刺したのは解明の愉悦などでは到底なかった。
それは、胸を焼くような激しい自責の念と、耐え難いほどの痛ましさであった。
「……う……っ……く……!」
背後で、苦悶に満ちた小さな息遣いが漏れた。
ロッソが弾かれたように振り返ると、観測室の入口近くに佇んでいた少女——ユキが、自身の華奢な胸を両手で強く抱きしめ、石畳の上へと崩れ落ちかけていた。
ユキの透き通るような肌からは血の気が完全に失われ、紙のように蒼白に染まっている。その小さな身体はガタガタと激しく震え、薄い唇からは掠れた悲鳴とともに、血の混ざった途切れ途切れの息が吐き出されていた。
過去と未来の境界を繋ぎ、未来の演算結果を過去の因果へと送り届ける『時間遡行の器』。世界線を書き換えるという膨大な事象の改変と引き換えに、少女の幼い肉体には、時空の歪みがもたらす凄まじい質量と痛みが直接叩き込まれていたのだ。
「ユキ……!」
ロッソは朱色のコートを揺らし、血と雨に濡れた石畳を突いて駆け寄った。冷徹で傲慢な探偵の仮面は完全に剥ぎ取られ、その瞳には狼狽と痛切な情感が溢れ出ている。
ロッソは膝をつき、倒れ込むユキの小さな身体をしっかりと両腕で抱きとめた。
「ユキ……しっかりしなさい、ユキ……!」
抱きしめた少女の身体は驚くほど冷たく、そして激しく強張っていた。時空が軋みを上げる不吉な振動が、ユキの肌を通じてロッソの掌へと直接伝わってくる。
「……あ……ロッ……ソ……っ……」
ユキは苦痛に顔を歪め、空虚な光を宿し始めた瞳でロッソを見上げた。呼吸をひとつ重ねるたびに、少女の生命そのものが摩耗し、時間の狭間へと削り取られていくかのような絶望的な負荷。
ロッソはぎり、と奥歯が割れるほど噛み締め、己の探偵としての不覚を激しく呪った。
(私のせいだ……。私がこの時間軸で一歩及ばず、奴の隠し通路と密室の罠を読み切れなかったばかりに……! 私の不覚のツケを、またお前に払わせることになってしまった……!)
不純な死を憎み、未然の防止を絶対の美学と誇る自分が、最も大切でかけがえのない相棒に、これほどの激痛と苦しみを強いている。己の頭脳が至らなかったせいでユキの命を削らせているという事実が、ロッソの心を鋭い刃となって抉り取っていた。
「すまない……すまない、ユキ……!」
ロッソは手袋を外した素手でユキの冷え切った頬を包み込み、その額に己の額を強く押し当てた。少しでもその苦痛を分かち合いたいと願うように、冷たい少女の手を力強く握りしめる。
「私の不徳だ……。だが、誓うよ。この苦しみを決して無駄にはしない。過去の私に必ずあの惨劇を打ち砕かせ、この不純な悪夢を根底から消し去ってみせる……!」
ロッソの痛切な吐息と誓いを受け止めながら、ユキは微かに瞳を細めた。
苦悶に引きつっていた少女の指先が、ロッソの手を弱々しく、けれど確かに握り返す。言葉は出なくとも、「分かっている」「信じている」と語りかけるような、どこまでも無垢で優しい温もりがそこにあった。
「……つなぐ……よ……」
ユキの唇が小さく動いた。その瞳の奥で、過去と未来を繋ぐ不可視の『境界』が臨界点へと達する。
「……頼む、ユキ……!」
ロッソの悲痛な叫びとともに、世界が歪み始めた。
観測塔を叩きつけていた雨の音が遠のき、咆哮していた風の音が引き延ばされていく。血に染まった石畳も、号泣するヨハネスも、狂信に踊るエルハルトも、すべての景色が万華鏡のように砕け散り、色を失っていく。
重力と時間が反転する不吉な濁流の中で、ユキの小さな唇がそっと開かれた。
未来の探偵が導き出し、少女の身体を酷使して過去へと解放される、唯一の干渉——。
『天の血痕に、闇を重ねろ』
少女の掠れた声が、時空の割れ目へと滑り込んでいく。
確実な死と絶望が刻まれた時間軸が音を立てて崩壊し、惨劇が起きる前の『過去』へと、世界が大きく巻き戻されていった。
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