5:闇に留まる傷
観測タワーの最上階を支配していたのは、刺すような冷風と、耐え難いほど濃厚な血の匂いであった。
吹き抜けの天井から絶え間なく降り注ぐ雨滴が、石畳の上に広がったテオの赤黒い血を濡らし、薄め、冷たい水たまりを作っていく。息絶えた青年の冷たくなりゆく体を抱きしめ、老教授ヨハネスは声を枯らして嗚咽を続けていた。その絶望の泣き声は、館を揺らす嵐の咆哮にかき消され、暗闇へと虚しく溶けていく。
そのすぐ傍らで、返り血を浴びた助手のエルハルトは、石畳に膝をついたまま両手を天へと掲げ、恍惚とした笑みを浮かべていた。
「見よ……世界の破綻は免れたのだ……。神の秩序は守られた……。生贄の血によって、天の傷は塞がれたのだ……!」
狂信に溺れた青年の呟きは、もはや人間の言葉としての体をなしていなかった。彼にとって、目の前で流された無垢な青年の血は罪悪の対象ではなく、世界を崩壊から救うための聖なる犠牲に過ぎないのだ。
——第一時間軸における惨劇の確定。
依頼人の願いは打ち砕かれ、守るべき命は散り、密室の罠によって敗北が刻まれた。
破られた扉の傍らで、朱色の外套を風になびかせながら、探偵ロッソは微動だにせず佇んでいた。
彼女の固く結ばれた唇からは、ぎり、と歯噛みするような重い鈍い音が漏れている。冷徹なその瞳の奥には、事件を未然に防ぎ得なかった探偵としての激しい屈辱と、底知れぬ氷のような憤怒が燃え上がっていた。
(……私の不覚だ。隠し通路の存在、そして奴の狂熱がもたらす執念の深さを見誤った……)
不純な死を未然に防ぐことこそが、時間遡行探偵である彼女の絶対の美学。それを踏みにじられた激痛が、ロッソの胸を焦がす。
だが、ロッソはそれ以上、感傷に胸を削ぐことはしなかった。彼女はしずしずと足を踏み出し、靴底で血の混ざった雨水を踏み鳴らしながら、観測室の中央に鎮座する異物——真鍮製の巨大な望遠鏡へと近づいた。
「な、何をする気だ、探偵……!」
膝をついたままのエルハルトが、血走った目でロッソを睨みつけた。
「その『神の眼』に触れるな! それは聖なる天球の姿を映し出し、私に調和の危機を伝えてくれた神聖なる器具なのだ! 不浄な者が気安く触れてよいものではない!」
ロッソはエルハルトの叫びを完全に無視した。手袋をはめた指先で、冷たい真鍮の肌を静かに撫でる。
継ぎ目のない精巧な筒、微小な動きを制御する緻密な微動ネジ。属性を削ぎ落とした異常な透過度を誇る対物レンズ。
(……ここには過剰すぎる文明の産物。ネロ商会が歴史の歪みに落とし込んでいった悪意の器……)
ロッソは接眼レンズにゆっくりと顔を近づけ、筒の中を覗き込んだ。
視野の中に広がっているのは、吹きつける暗雲の切れ間から一瞬だけ覗いた、暗く不吉な夜空の断片であった。そして、その視界の端に、微かに赤く滲んだ影のようなものが浮かんで見えた。
「見えるだろう!?」
エルハルトが石畳を這いずるようにして叫んだ。
「それこそが『神の血痕』だ! 完璧なる天球に刻まれた悲鳴なのだ! その歪みが世界を浸食しようとしていた……! だから私は生贄を捧げねばならなかったのだ!」
ロッソは何も答えない。ただ無言のまま、望遠鏡の基部にある固定用の微動ネジへと指を伸ばした。
ギィ……と、滑らかな真鍮の歯車が噛み合う微かな金属音が響く。
ロッソは望遠鏡の筒をゆっくりと横へスライドさせた。予言の星が輝く方角から筒を外し、厚い暗雲が立ち込める「星がひとつも見えない漆黒の闇」へと角度を変える。
そして、再び接眼レンズを覗き込んだ。
ついで、ネジをさらに緩め、筒の先端を大きく下へと傾けた。向かう先は空ではない。観測タワーを支える、不透明で黒ずんだ「石造りの内壁」である。
ロッソは三度、じっとレンズの奥を見つめた。
……数十秒に及ぶ沈黙。
風雨が吹き荒れる観測室の中で、ロッソの瞳に宿っていた暗雲が晴れ、氷のような冷厳な確信が宿る。
(……なるほどね。そういうことか)
探偵の頭の中で、惨劇を引き起こした狂信の「動機の乖離」が、鮮やかな一枚の図面となって組み上がった。犯人が崇めていたものの正体、そしてその愚かしさ。物理的な矛盾の手札は、いま完全に彼女の手中に収まったのだ。
ロッソはゆっくりと望遠鏡から目を離すと、口元に冷たい薄笑いを浮かべた。
「何が可笑しいのだ、探偵……! 何が……!」
「……いやなに、狂信というものがどれほど人間を盲目にするか、改めて感心していただけさ」
ロッソは朱色の外套を翻し、エルハルトを冷たく見下ろした。だが、彼女の口からそれ以上の解説が出力されることはなかった。なぜその笑みが浮かんだのか、筒の奥で何を確認したのか——その真相を、ロッソはこの場で明かすつもりなど毛頭なかったからだ。真実の解体は、惨劇が起きる前の過去において、自らの手で果たさねば意味がない。
ロッソは背を向け、観測室の入口で静かに佇む少女——ユキへと歩み寄った。
ユキの小さな体は、微かに震えていた。
過去と未来の境界を繋ぎ、時間の歪みを収束させるための「演算」が始まったのだ。透き通るような彼女の肌は血の気を失って蒼白となり、その瞳は見たこともないような虚無の光を帯び始めている。世界線を書き換えるための代償——時間遡行の媒介たる少女の肉体にかかる、激しい苦痛と負荷の兆候であった。
「……ユキ」
ロッソの声から、先ほどまでの冷酷な探偵の面影が消え去っていた。
彼女はユキの前に膝をつき、手袋を外した素手で、少女の冷え切った頬をそっと包み込んだ。その瞳に溢れていたのは、痛いたしさと、深い自責の念であった。
「すまない、ユキ……。私の不覚だ。私が奴の足音を、あの狡猾な密室の裏を読み切れなかったばかりに……またお前に、こんな酷い苦しみを背負わせることになってしまった」
ロッソの手が、微かに震える。
傲岸で完璧主義な探偵にとって、己の敗北以上に耐え難いのは、その不覚のツケを、己の命よりも大切な相棒に払わせているという事実であった。ユキの幼い身体が耐え忍ぶ激痛は、そのままロッソの心を抉る刃となっていたのだ。
ユキは小さく息を吐きながら、透き通る瞳でロッソを見つめ返した。そして、ロッソの温かい手に己の手をそっと重ね、首を横に振った。言葉はなくとも、その静かな仕草が「気にしないで」と探偵を慈しむように伝えていた。
「……優しい子だね、お前は」
ロッソは痛切な想いを込めてユキをそっと抱きしめ、その耳元で低く誓うように囁いた。
「二度と……あの凄惨な結末は許さない。この不純な惨劇を、お前が背負う痛みの数だけ、完璧に書き換えて見せる」
ロッソの頭脳が猛烈な速度で回転を始める。現場で手に入れた決定的な矛盾、犯人の思考を侵食するバグ、そして過去の自分へ送るべき「たった一言」の選定。
「……準備はいいかい、ユキ」
ユキはロッソの腕の中で、静かに、しかし力強く頷いた。少女の唇から、未来からのパスワードを受け取るための、小さく掠れた息が漏れ出していく。
過去を塗り替え、惨劇を未然に消し去るための時間遡行のカウントダウンが、静かに始まったのだった。
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