4:天頂の惨劇
子刻——深夜十二時を告げる大きな振り子時計の打鐘まで、あとわずか三十分となっていた。
外の暴風雨はいよいよ激しさを増し、たたきつける雨粒が重厚な窓枠を小刻みに震わせている。館を包む暗闇は深く、廊下に置かれた燭台の火は吹き込む冷気によって今にも消え去りそうに揺らめいていた。
「テオ。君は今夜、一歩もこの応接室から出るんじゃない」
ロッソは暖炉の前に腰掛けたまま、低く冷たい声で命じた。その眼差しには、いつもの嘲すむような余裕はなく、狩人を前にした猛獣のごとき鋭い警戒色が宿っている。
「えっ……? でも、エルハルトさんの夕食の食器を下げに行かないと……」
「余計な配慮は不要だ。教授、君もだ。この部屋でテオから目を離すな」
ロッソの厳格な指示に、老教授ヨハネスは生唾を呑み込み、力強く頷いた。
「わ、分かった。テオ、ロッソ殿の言う通りにしなさい。……今夜のエルハルトは異常だ」
ロッソは立ち上がると、朱色のコートの裾を払った。彼女の狙いは明快であった。エルハルトが「生贄の儀式」を行おうとする以上、ターゲットであるテオとエルハルトの物理的接触を遮断すれば、凶行は成立し得ない。ロッソは自ら廊下に出て、観測塔へと続く唯一の階段の前に陣取り、塔からの降下および館内の異変に目を光らせていたのだった。
隣に並ぶユキが、暗がりを見つめたまま、ぽつりと呟いた。
「ロッソ……風の音が、変」
「……なに?」
その瞬間、ゴオン……と館の底を揺らすような低い打鐘の音が響いた。子刻の到来であった。
「……しまっ……!」
ロッソは即座に踵を返し、応接室の扉を蹴るようにして開け放った。
室内には、放心したように腰を抜かしているヨハネスの姿しかなかった。
「教授! テオは!?」
「あ、ありえない……! ほんの一瞬、私が壁の星図に目をやった隙に……! テオが、姿を消したのだ!」
ヨハネスは震える指で、部屋の隅にある小さな給仕用の隠し扉を指した。かつて使用人が館の裏を通るために作られた、羊皮紙の棚の陰に隠された狭い通路。館の構造を極め尽くしたエルハルトは、正門の階段をロッソが固めていることを見越し、この隠し通路からテオに声をかけ、言葉巧みに連れ出したのだ。
「あの青二才……! テオの人の良さを利用したか!」
ロッソは吐き捨てるように叫ぶと、朱色の外套を翻して螺旋階段へと突進した。隠し通路の先が目指す場所はただ一つ、最上階の観測塔しかない。
「逃がしはしない……!」
石造りの階段を激しく叩く靴底の音が、冷たい塔内に響き渡る。ロッソの脚力は人間離れしていた。二段飛ばしで階段を駆け上り、背後に迫る嵐の咆哮を振り切りながら、一刻も早く惨劇の現場へと追いつこうと牙を剥く。
しかし——。
最上階の観測室に到達した瞬間、ロッソの眼前に立ちはだかったのは、重厚なオーク材の扉と、内側から「ガチャン!」と虚しく噛み合わされた巨大な真鍮の閂の音であった。
「ドアを閉ざした……!? くそっ!」
ロッソは即座に肩を扉へ叩きつけた。ドスン、と激しい衝撃が走り、木枠が悲鳴を上げる。しかし、何百年もの風雪に耐えてきた古城の扉は不気味なほど頑丈で、一撃では破れない。
「どけ、ロッソ!」
遅れて追いついたヨハネスが、脇にあった儀式用の重い燭台を抱え上げ、扉の鍵穴周辺へ叩きつけた。二度、三度。金属と木材が砕け散る激しい音が塔内に響き渡り、ついに閂が弾け飛んだ。
開かれた扉の隙間から吹き込んできたのは、嵐の風雨と、耐え難いほどの濃厚な鉄の匂い——血の匂いであった。
「テオ……!」
観測室の中央。吹き抜けの天井から雨が降り注ぐ冷たい石畳の上に、哀れな青年が横たわっていた。
胸を深々と刺し貫かれたテオ。
彼の無垢だった瞳は空虚に天を見仰ぎ、溢れ出た大量の赤黒い血が、雨水と混ざり合いながら石畳の目地を伝って広がっていく。その傍らには、返り血に濡れた小さな凶器が転がっていた。
「ああ……ああああっ! テオ! テオおぉっ!」
ヨハネスが絶叫し、血の海へと膝をついた。息絶えた青年の冷たくなりゆく身体を抱きしめ、老学者は涙と血に塗れながら号泣した。
「そんな……なぜだ! 私が……私が目を離したばかりに! テオ、目を開けてくれ!」
その悲惨な光景のすぐ傍らに、一人の男が佇んでいた。
助手のエルハルトであった。
シャツを返り血で赤く染めた青年は、凶行を終えた手を見つめ、恍惚とした笑みを浮かべていた。
「見たか……教授……。見ただろう……!」
エルハルトは返り血のついた顔を歪め、うっとりとした眼差しで観測室の中央に鎮座する真鍮の望遠鏡を見つめた。
「予言の星が天頂に巡り……生贄の血が捧げられた。神の調和は保たれたのだ! 天の傷は塞がれた……世界の崩壊は防がれたのだよ!」
青年は狂ったように高笑いを上げ、その場に膝をついて祈るように両手を掲げた。己が犯した凄惨な殺人を、世界を救った聖なる偉業であると、本気で信じ切っているのだ。
「エルハルト……お前という男は……!」
ヨハネスは怒りと絶望に打ち震え、教え子を睨みつけたが、もはや声にならなかった。
ロッソは、破られた扉の入口で微動だにせず立ち尽くしていた。
ぎり、と歯噛みする音が彼女の口元から漏れる。
(警戒網を敷き、出口を固め、護衛をつけた……。それでも、館の構造と人間の善意を逆手に取った狂信の前に、一歩及ばなかったというのか……!)
阻止のための足掻きは届かず、絶望の密室の中で命は散った。
依頼を果たせず、眼前で不純な死を許してしまった探偵としての圧倒的な敗北——『惨劇の確定』であった。
吹きすさぶ風雨の中、血の海と化し、絶望と狂信が充満する観測室の入口で、ロッソの朱色のコートが濡れて重く垂れ下がっていた。
彼女の冷徹な瞳には、深い屈辱と、この惨劇の因果を根底から解体して書き換えてやるという、氷のように冷たい憤怒の炎が燃え上がっていた。
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