3:過剰なる硝子
観測塔の冷気に晒された体を温めるため、ロッソたちは一階の重厚な食堂へと戻っていた。
石造りの壁を揺らす嵐の咆哮は、時が経つにつれてその激しさを増している。窓枠の隙間から滑り込む冷たい風が、大きな長卓の上に並べられた燭台の炎を空しくなびかせていた。外の崖崩れによって下界との通信も物理的な行き来も完全に絶たれたいま、この館は闇の深海に沈む一艘の泥船に等しい。
「さあ、みなさん。こんな夜ですが、温かいものでも召し上がってください」
居候の青年——テオが、大きな木製のトレーに湯気を立てる鍋と皿を載せて運んできた。
彼はエルハルトが自分に対して抱いている不吉な視線や、老教授ヨハネスの痛々しいほどの固苦しい沈黙を意に介していない様子で、甲斐甲斐しく給仕を進めていく。その無垢な明るさが、かえってこの空間に漂う不気味な暗雲を浮き彫りにしていた。
「……エルハルトは、やはり来ないのだな」
ヨハネスが、手元の空席を見つめながら力なく呟いた。
「ええ。塔の扉の前で声をかけたのですが、『手記の整理で忙しい』と……。食事も部屋の前に置いておけと言うばかりで、取り付く島もありませんでした」
テオは悲しそうに眉をひそめ、首を横に振った。
「エルハルトさんは昔から熱心な人でしたけれど、あの望遠鏡が届いてからは、まるで別人のようになってしまいました。寝る間も惜しんで覗き込んで……最近では僕と目を合わせようともしてくれないんです。何か気に障ることをしてしまったのなら、謝りたいのですが」
「……テオ、お前が気にすることではない。……絶対に、夜中に一人で塔へ近づいてはならんぞ。いいな」
ヨハネスは重々しく釘を刺すと、手元のスープに匙を伸ばしたが、その手は微かに震えていた。長年連れ添ってきた愛弟子が自分を殺害しようとしているなどと、若くまっすぐなテオに言えるはずもなかった。
ロッソはそんな二人の痛々しい会話に一切関与せず、目の前の長卓に並べられた品々を冷ややかな眼差しで検分していた。
卓上に置かれたのは、スパイスとともに煮込まれた熱いホットワインと、香ばしく焼き上げられた小ぶりの焼き菓子であった。一見すれば、山頂の古城で客人をもてなすためのご馳走に過ぎない。
しかし、ロッソの視線は、ワインが注がれた「器」の上でぴったりと止まった。
そこに置かれていたのは、一光の濁りすら持たない、透明な器であった。
「……ほう」
ロッソは細い指先でその杯の縁をなぞった。
この現代、腕利きの硝子職人が手掛ける器であっても、その肌には微細な気泡が混じり、微妙な歪みや緑がかった濁りが残るのが常であった。しかし、いまロッソの指先が触れているこの硝子杯には、気泡ひとつ、寸分の歪みすら存在しない。まるで結晶化させた氷の固まりを、神の刃物で削り出したかのような、異様なまでの透明度を誇っていた。
ホットワインの深い赤色が、歪むことなく極めて鮮明に、向こう側の景色を透かしてみせている。
「綺麗な器……」
隣に座るユキが、小さく呟いた。その透き通るような瞳が、硝子杯に反射する燭台の炎を映し出している。
「綺麗、かね。私には薄気味悪く見えるがね」
ロッソは朱色のコートの袖を滑らせ、硝子杯を光にかざした。
「教授。この硝子杯も、例の『ネロ商会』と名乗る行商人が置いていったものかい?」
ヨハネスは驚いたように顔を上げ、静かに頷いた。
「……左様です。望遠鏡とともに、彼らが『些細なお礼』として置いていった器です。我が国のいかなる名工の工房を探しても、これほどの透過度を持つグラスなど見たことがありません。初めはその美しさに感嘆したものですが……」
「過剰なのだよ」
ロッソは冷ややかに言い捨て、焼き菓子の皿へ視線を移した。
器の傍らに添えられた壺の中には、雪のように白く、サラサラとした粉末が満たされていた。砂糖である。
通常、流通する砂糖といえば、不純物が混ざった茶褐色で塊状のものが一般的であった。だが、この壺に入っているのは、まるで新雪をすり潰したかのような、純白に精製された砂糖であった。
ロッソはスプーンの先でその白い粉末をほんのわずかだけ掬い、口に含んだ。
「……舌が痺れるほどの、純粋な甘みだ。雑味が一切排除されている。……フフ、不快なものだね」
ロッソは吐き捨てるように言い、匙を置いた。
「毒でも入っているのですか、ロッソ様?」
不思議そうに尋ねるテオに対し、ロッソは嘲るような薄笑いを向けた。
「物理的な毒ならば、まだ可愛げがあるというものさ。……これは『視覚と感覚を狂わせる毒』だよ。人間という生き物はね、己の身の丈に合わない過剰な文明の産物を突きつけられると、世界の理が揺らいだと錯覚する。歪みのないグラス、不純物のない甘み、そして……肉眼では見えぬ領域を映し出す筒」
ロッソは立ち上がり、窓の外の暗闇を見やった。
ネロ商会。彼らは単に珍しい品を売って利益を得ているわけではない。時代に対してあまりに「過剰」な技術や物品を歴史の各所に投下し、人々の認識を狂わせ、狂気へと誘い込んでいるのだ。あの観測塔に鎮座する望遠鏡も、この館の者たちの正気を侵食するための触手に過ぎない。
「教授。予言の星が天頂に達する刻限は、いつだ?」
ロッソの鋭い問いかけに、ヨハネスは顔を蒼白にさせた。
「……子刻(深夜十二時)です。あと一時間もすれば、天体の配置はエルハルトの言う『決行の刻』を迎えます」
「そうか」
ロッソは朱色の外套を羽織り直し、冷たい笑みをたたえた。
「いよいよ、劇の幕が上がるというわけだ。過剰な因子に見せられた妄想が、どこまで人間を狂わせるのか……見届けに行こうじゃないか」
外の暴風雨は衰える兆しを見せず、館を包む暗闇はどこまでも深く、重く沈んでいた。予言の刻限に向けて、時計の針は静かに、しかし確実に刻みを進めていた。




