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2:完璧なる天球の狂い

 切り開かれた山道が崩れ去り、天頂館が完全な孤島と化してから数時間が経過していた。


 館の外では、叩きつけるような雨と咆哮する暴風が壁の石肌を削り続けている。石造りの広間に置かれた大きな暖炉からは、爆ぜる薪の音が時折響くのみで、漂う空気はどこまでも冷たく沈んでいた。


「——やあ、ヨハネスおじさん。お客様かい? こんな嵐の夜に山の頂まで登ってくるなんて、命知らずな人がいたものだね」


 暗い廊下の奥から、軽快な足取りとともに一人の青年が姿を現した。使い古された羊毛のシャツに身を包んだその青年は、無邪気で人懐っこい笑みを浮かべている。彼こそが、ヨハネスの亡き友人の息子であり、この館に身を寄せている居候——テオであった。


「テオか。客人に失礼な言い方をするものではない」


 ヨハネスは苦笑いを浮かべつつも、その眼差しにはどこか庇護と哀憐の色が混ざっていた。テオは館の手伝いや力仕事を嫌な顔一つせずに引き受ける純朴な青年であり、この荒涼とした観測塔において、唯一の温もりを与える存在でもあった。


「いいや、構わないさ。事実、命知らずなのは否定できないからね」


 ロッソは脚を組み替えないまま、テオを一瞥して唇を歪めた。その隣で、ユキは静かにテオの顔を見つめている。テオ自身には何の落ち度もなく、誰かに恨みを買うような影すら見当たらない。まさに無垢な存在そのものであった。


 だが、その和やかな空気は、一人の男が階段を下りてきたことによって一瞬で凍りついた。


 観測塔へと続く螺旋階段から姿を現したのは、青白い顔をした青年——助手のエルハルトであった。

 彼の目元には酷い隈が刻まれ、その瞳は異常なまでの光を帯びて充血している。手には羊皮紙のノートを強く握りしめ、その指先は白く強張っていた。


 エルハルトの視線がテオへ注がれる。

 そこにあったのは、憎悪や嫉妬といった浅ましい感情ではなかった。それは、不可避の運命に直面した者が抱く、哀悼と狂信が入り混じった底知れぬ眼差しであった。あたかも、明日殺処分されることが決まっている羊を前にした屠殺人のような、歪んだ慈悲の視線。


「エルハルト……また塔に籠もっていたのか。少しは休みなさいとあれほど……」


 ヨハネスが気遣うように声をかけるが、エルハルトは師の言葉など初めから耳に入っていないかのように首を横に振った。


「休みなど……あるはずがありません、教授。刻が満ちようとしているのです。予言の星が天頂に達するまで、もう残された時間はわずかしかない……」


「エルハルト、お前は錯乱している。何度も言わせるな。神が創り賜うたこの天球は完璧なのだ。四分儀が示す角度も、星盤が刻む運行も、すべては完璧な調和の中に——」


「完璧などではない!」


 エルハルトの声が石造りの壁に甲高く跳ね返った。彼は懐から取り出した手帳をヨハネスへ突きつけるようにして叫んだ。


「私たちが肉眼で見上げていた空など、神が人間に見せるために用意した偽りの表層に過ぎない! あの『神の眼』を覗くまでは……私も貴方と同じように、愚かな調和を信じ込んでいた!」


 ロッソは静かに立ち上がると、コートを揺らしてエルハルトへ近づいた。


「『神の眼』……あの真鍮の覗き筒のことだね。案内してもらおうか、助手君。君がその狂気に取り憑かれることになった、過剰な器械のもとへ」


 エルハルトはロッソを冷たく見下ろしたものの、己の正当性を証明したいという欲望に抗えなかったのか、無言で踵を返し、螺旋階段を上り始めた。ロッソ、ユキ、そしてヨハネスもそれに続く。


 塔の最上階——天井が半球状に開かれ、嵐の冷気が直接吹き込む観測室の中央に、それは鎮座していた。


 重厚な三脚の上に固定された、真鍮製の巨大な筒。

 ロッソはその表面に指を滑らせた。継ぎ目すら感じさせない寸分の狂いもない鍛造技術。微細な角度調整を可能にする緻密な微動ネジ。そして何より、暗がりの中でも薄光を放つような、異常なまでの透明度を誇る対物レンズ。


(……間違いない。これは、この時代の金属細工師や職人の手に負える代物ではないね。ネロ商会……また不吉な『過剰』を歴史に落とし込んでいったわけだ)


 ロッソの眼差しが冷ややかさを増す。この器械が存在すること自体が、この時代の技術体系に対する暴力であった。


「見なさい、探偵」


 エルハルトが筒の横に立ち、愛おしそうに真鍮の肌を擦った。


「この筒を通して星々を拡大した時、恐ろしい真実が姿を現す。地球を中心に層をなして回る完璧な結晶天球……その聖なる理の隙間に、あってはならない『歪み』が存在するのだ」


「歪み、とは?」


「赤く滲んだ影……『神の血痕』だ」


 エルハルトの顔が狂熱に歪む。


「天は傷ついている! 神の調和は破れ、世界の崩壊が始まっているのだ! そして、その傷痕は特定の領域へと収束しつつある。今夜、予言の星が天頂に達するその瞬間……天の歪みは極限に達し、世界は混沌へと呑み込まれるだろう!」


「だから、生贄が必要だと?」


 ロッソの淡々とした問いかけに、エルハルトは大きく頷いた。


「そうだ! 神の傷を塞ぐには、この地に満ちる不純を祓い、尊い血を捧げねばならない。あの異邦の青年——テオの生命を捧げることでしか、天の調和は取り戻せないのだ! 私は彼を憎んではいない……むしろ、世界の崩壊を防ぐための聖なる犠牲として、彼の魂を悼んでいる!」


「馬鹿な……! そんな妄想のためにテオを殺そうというのか!?」


 ヨハネスが怒りと恐怖に声を震わせたが、エルハルトの耳には届かない。青年の瞳には、もはや論理的な会話を拒絶する絶対の狂信だけが宿っていた。


 完璧な神の世界が壊れかけているという事実誤認。そして、世界の終わりを防ぐために人を殺めなければならないという倒錯した義務感。


 ロッソは望遠鏡の冷たい真鍮の感触を指先で確かめながら、薄く失笑した。


「なるほどね。実に美しく、そして救いがたいほどの『誤認』だ」


 嵐の風が観測室に吹き荒れ、エルハルトの乱れた髪を激しく揺らしていた。予言の星が天頂へと昇り詰める刻限は、一刻一刻と近づいていた。


感想いただけると狂喜乱舞しますので感想くださいください

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