1:孤立する天頂館
天を刺すような険しい岩肌を、雷鳴が裂いていた。
山麓から伸びる唯一の道は、歩むほどに細く、険しく、そして冷気を含んだ泥流へと姿を変えていく。四輪馬車の車輪がぬかるみに取られ、悲鳴のようなきしみ声を上げるたび、黒い外套を纏った少女——ユキは、小さな身体を揺らしながら黙って膝を抱えていた。その白い肌と透き通るような瞳は、荒涼とした山嶺の景色の中で異彩を放っている。
「酷い嵐になりそうだね」
向かいの座席で、朱色のコートを羽織った探偵——ロッソは、車窓の木枠に肘をつき、外の暗雲を眺めながら呟いた。彼女の唇には、嘲るような、どこか芝居がかった笑みが浮かんでいる。
「空がこれほど乱れていては、自慢の星々とやらも拝めそうにない。……もっとも、私たちが呼ばれた理由は、天体の観測などという優雅な代物ではないのだろうがね」
馬車が大きく揺れ、ついに止まった。御手を務める男が「これ以上は馬を運べねえ」と震えた声で叫ぶ。仕方なくロッソとユキは泥に足を踏み入れ、風雨のなかを歩いた。
急勾配の崖を登りきった先に聳え立っていたのは、黒ずんだ石積みの塔であった。古城『天頂館』。何百年もの間、風雨と雪に晒され続けてきたその建築物は、人間を拒絶するように不気味に佇んでいる。
重厚なオーク材の扉を叩くと、きしみ音とともにゆっくりと開き、一人の老人が燭台を掲げて姿を現した。深く刻まれた眉間のシワと、疲れ切った眼差し。この館の主であり、生涯を天体の運行記録に捧げてきた占星天文学者——老教授ヨハネスであった。
「……おお、よくぞ来てくださいました、ロッソ殿。このような悪天候の中を……」
ヨハネスは震える声で二人を館内へと招き入れた。石造りの広間はひんやりと冷え切っており、壁に掛けられた羊皮紙の星図や、真鍮製の星座盤の影が、ゆらめく燭台の光によって壁面に引き伸ばされていた。
暖炉の火が燃える応接室へと通されたロッソは、出された温かい茶に一口も手をつけず、脚を組んで背もたれに深く寄りかかった。
「挨拶は省略しよう、ヨハネス教授。手紙には『助手の異常な言動を正気へと戻してほしい』とあった。この嵐の山頂まで私を呼びつけるからには、単なる若者の青臭い妄想や反抗期というわけではなさそうだしね」
ロッソの冷徹な切り込みに、老教授ヨハネスは深く溜息をつき、両手で顔を覆った。
「……仰る通りです。私の弟子である助手——エルハルトという青年は……かつて極めて優秀で、誠実な天文学徒でした。先人たちが遺した秩序ある世界の正しさを信じ、完璧な結晶天球の調和を熱心に計算していた。しかし……数ヶ月前、例の『異物』がこの館に持ち込まれてから、彼の精神は急速に蝕まれてしまったのです」
「異物?」
「ある怪しげな商人——ネロ商会と名乗る者たちから手に入れた、真鍮製の覗き筒です。『望遠鏡』と呼ばれるその器具は、肉眼や四分儀では決して捉えられぬ遠方の星々を拡大して映し出すという……あまりに過剰な器械でした。それ以来、エルハルトは観測塔に閉じこもり、日増しにおかしなことを口にするようになりました」
ヨハネスは声を潜め、周囲の闇を警戒するように言葉を続けた。
「エルハルトは……『神が創り上げた完璧な天球に、あってはならない傷痕がある』と言い出したのです。この望遠鏡でしか見えない不吉な影——『神の血痕』が存在すると。そして、特定の星が天頂に巡り来る刻、その歪みを修復しなければ世界そのものが狂い落ちると信じ込んでしまった」
「ふむ。ただの狂信者の戯言に見えるがね」
ロッソが淡々と言うと、ヨハネスはかぶりを振った。
「それだけならば、ただの心の病として処置できたでしょう。しかし、彼の狂気は具体的な『生贄』を要求し始めたのです。『予言の刻が満ちる時、館に棲まう異邦人の生き血を捧げねばならない』と……。ターゲットにされているのは、私の亡き友人の息子——この館に身を寄せている純朴な青年、テオです。エルハルトはテオに個人的な恨みがあるわけではない。むしろ『世界を救うための哀れな犠牲』として彼を悼みながら、本気で彼を殺害しようとしているのです」
老教授の目は切実であった。長年積み上げてきた学問の尊厳と、弟子であるエルハルトが狂信へと堕ちていく恐怖の狭間で、彼は完全に立ちすくんでいたのだ。
「私には……彼の狂気を整合性をもって論破することができませんでした。彼は望遠鏡越しに見えるその『影』を絶対の事実だと主張し、いくら説き伏せようとしても耳を貸さない。お願いです、ロッソ殿。あなたのその類稀なる頭脳で、エルハルトの妄想の矛盾を暴き、殺意という名の悪夢を解き明かしてはくれないでしょうか」
ロッソは細い指先で自身の顎をなぞり、薄く微笑んだ。
「完璧な天球の傷、ね。面白い。不純な狂気によって理性を踏みにじる行為は、私の美学に反する。……いいだろう。その男の『歪み』を解体してあげようじゃないか」
その時であった。
ズズズ……ドスン! と、館全体を激しく揺らす地鳴りのような重低音が響き渡った。
応接室の窓が振動し、燭台の炎がいっせいに小さく揺らぐ。ヨハネスが慌てて立ち上がり、窓の外の暗闇を見やった。
「な、何事だ……!?」
ロッソとユキも静かに立ち上がり、廊下へと出た。館の重い正面扉を開けると、吹き込んできた暴風雨とともに、館の使用人が顔を泥だらけにして駆け込んできた。
「ヨハネス様! たいへんです! 山頂へ続く唯一の切り通しで大規模な崖崩れが発生しました! 巨岩と泥流が崖道を完全に埋め尽くし……下界への道は完全に途絶えました!」
「なんだと……!?」
「復旧にはどんなに早くとも数日はかかります! 私たちは……この山頂に閉じ込められました!」
使用人の悲鳴のような報告が、暗い廊下に虚しく響き渡った。
外は激しい嵐。下界への逃げ道は絶たれ、山頂の古城は外界から完全に遮断された。
こうして『天頂館』は、逃げ場のない物理的な密室へと変貌を遂げたのである。
暴風が吹き荒れる闇の中、観測塔の最上階から、微かに何かが金属を擦り合わせるような、冷たく乾いた音が下りてきていた。
ロッソは外套の裾を翻し、暗闇の奥を見つめた。
「クローズド・サークルの完成か。……おあつらえ向きの舞台装置だね」
その瞳に宿るのは、惨劇を防ぐための冷徹な意志。逃げ場のない館の中で、狂信と論理が交錯する嵐の夜が、静かに幕を開けたのだった。
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