エピローグ:和解、そして空腹
夜を徹して館を叩き続けていた激しい嵐は、東の空が白むとともに嘘のように去り散っていた。
雲の切れ間から差し込む澄んだ朝の光が、『針の館』の分厚い高窓を透過し、石畳の床の上に幾重もの幾何学模様の光影を描き出している。湿り気を帯んだ爽やかな風が、換気のために開け放たれた重いオーク材の扉から吹き込み、館内に充満していた重苦しい油と熱の匂いを優しく拭い去っていった。
カハン、カハン、カハン。
吹き抜けの中央で、三メートルの巨躯を誇るホールクロックが、新しく巻き直されたゼンマイと代わりの振り子の動力によって力強く、一分の狂いもなく時を刻んでいる。
その台座の前には、清々しい顔をした二人の職人の姿があった。
「……すまなかった、エリオット」
先に声をかけたのは、兄弟子のジュリアンだった。その声からは、かつて彼を支配していた高慢さと冷酷さが削ぎ落とされ、一人の職人としての謙虚な響きが戻っていた。
「僕は、師匠から与えられた目に見える装飾や設計図ばかりに拘り、この時計の心臓部を支えていたお前の仕事を見ようとしていなかった。……師匠が本当に評価していたのは、お前のその愚直さだったんだな」
「ジュリアン……」
エリオットは首を横に振った。彼が作業着の胸元に大切そうに抱いている真鍮の振り子の裏側には、亡き師からの万感の愛と信頼が不滅の文字となって刻まれている。
「僕の方こそ、自分の不器用さに閉じこもって、ジュリアンの繊細な仕事を正当に敬うことを忘れていた。……この時計は、師匠と、ジュリアンと、僕の三人で完成させたものだ。これからは二人で、この工房の暖簾と精度を守っていきたい」
二人は静かに見つめ合い、やがて力強く固い握手を交わした。
言葉のすれ違いによって途切れかけていた師弟と兄弟の歯車が、正しく噛み合い、再び新しい時間を刻み始めた瞬間だった。
その光景を遠くから見届け、老番頭バナードは何度も目元を拭っていた。
「ロッソ様……言葉もございません。貴方様が居られなければ、この工房は……あの恐ろしい血の底に沈んでいたのです」
第一時間軸での生々しい惨劇の記憶を持ち越す「証人」として、バナードは震える手でロッソの手を握りしめ、深々と頭を下げた。
「このご恩は、生涯忘れません。お約束の報酬にございます。どうかお納めください」
差出された重みのある革袋を受け取り、ロッソはポケットへ収めた。
「礼なら、親方の遺した刻印に言いなよ、バナード。私はただ、間違った角度で差し込まれていた針を、あるべき位置に突っついただけだ」
ロッソは懐中時計を取り出し、パチ、と蓋を鳴らした。
文字盤の針は、すでに新たな旅立ちの刻限を示している。
「行こうか、ユキ」
「……うん」
傍らに立つユキは、昨夜の凄まじい干渉の負荷を感じさせないほど静かに頷いた。その白磁の肌には、朝の光を受けて透き通るような透明感が戻っていたが、その可憐な肉体が負った疲弊の痕跡を、ロッソは決して忘れてはいなかった。
二人は静かに『針の館』をあとにし、清々しい朝の空気に包まれた工芸都市の街路へと踏み出した。
◇
石畳の街路には、嵐の去った清々しさを祝うかのように、早朝から無数の馬車や行商人が行き交っていた。
立ち並ぶ露店からは香ばしいパンの匂いとともに、湯気立つスパイス料理の芳香が風に乗って漂ってくる。この街において、人々が当たり前のように肉料理に胡椒を振りかけ、美味しく食す光景は、ごくありふれた日常の一部として溶け込んでいた。
ロッソは歩みを進めながら、ふと路傍の露店に目を向けた。
そこには昨夜、工房の作業場で見かけたものと同じ、均一で極めて質の良い鋼のタガネや旋盤用バイトが、他の一般的な刃物と並んで無造作に売られている。
指先でポケットの中の懐中時計を弄りながら、ロッソの足が一瞬だけ弛んだ。
(『ネロ商会』、か……)
その刻印の名が、脳裏をかすめる。
腕の立つ職人が重宝する質の良い道具。どこの露店にも当たり前のように並び、当たり前のように買われていく品々。
だが、それがこの世界にどれほど大きな意味を持っているのか――鋭敏な知性を誇る探偵ロッソであっても、いまはその本質にも、街の日常に潜む歪みの正体にも気付いてはいない。
ただ、ほんのわずか。
その「ネロ商会」という名に対して、言葉にならない小さな引っかかりを覚えた程度であった。
「……ロッソ」
隣を歩くユキが、小さく呼びかけてきた。
色素の薄い瞳が、ロッソの横顔をまっすぐに見つめている。
「なに?」
「……お腹、空いた」
一瞬の沈黙の後、ロッソは気取りのない、爽やかな苦笑を漏らした。
「ふ……そうだね。昨夜は随分と激しい『計算』をしたからね。途中の町で、また何かまともなものでも腹に収めるとしよう」
ロッソはポケットから手を取り出し、真鍮製懐中時計の蓋を一度だけ、誇り高く鳴らした。
パチン。
「帰ろうか。私たちの拠点へ。……次の『狂った針』が、私達を呼ぶその時までね」
朝日が街並みを黄金色に染め上げる中、朱いコートを揺らす探偵と、純白の髪を持つ少女の影が、長々と石畳の上に伸びていた。
世界に散らばる不純物を解体し、奪われるはずだった未来を未然に救い出す二人――時間遡行探偵達の歩みは、これからも正しく時を刻み続ける世界とともに、どこまでも続いていく。
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