10:記憶の同期
泣きじゃくるエリオットの嗚咽が、静まり返ったホールにどこまでも深く響き渡っていた。
胸に強く抱きしめられた真鍮の振り子。その裏側に刻まれた亡き師の言葉は、男を苛み続けていた暗い劣等感と空虚の憎悪を、完全に削ぎ落としていた。エプロンのポケットの奥では、一度も抜かれることのなかった重厚な裁断刀が、カチャリと静かな音を立てて手放されていた。
殺意の消滅。因果の書き換え――。
惨劇が起こるはずだった未来が破棄され、歴史が完全に書き換わった、まさにその瞬間であった。
――ズズズ……ッ!!
世界からすべての音が途絶え、視界が歪んだ硝子越しのように大きく歪曲した。
時間が、空間が、因果のつじつまを合わせるために激しく鳴動する。
密室と化していた『針の館』のホールにいた者たちの脳脳へと、存在し得なかったはずの「第一時間軸」の記憶が、濁流となって直接叩き込まれた。
「――がぁっ!?」
老番頭バナードが、突如として頭を激しく抱え込み、石畳の床へ膝をついた。
彼の脳裏に、凄まじい衝撃とともに鮮明な「映像」と「感触」が焼き付けられていく。
嵐の深夜。雷鳴の轟くホール。
狂気に目を血走らせたエリオットが、ポケットから一振りの重厚な裁断刀を抜き放つ光景。
恐怖に顔を歪めて逃げ惑い、階段を転がり落ちるジュリアンの叫び声。
そして――振り下ろされた冷たい刃がジュリアンの胸元を深く穿ち、鮮血がホールクロックの黒檀の足元と真鍮パーツの上へ容赦なく飛び散る、あの悪夢のような光景。
『ひああああああっ!?ジュリアン様!ジュリアン様ぁっ!』
『起きてくれ、ジュリアン!頼むから目を開けてくれ!嘘だと言ってくれよ!!』
手には、破裂したランプの油とジュリアンの朱い血の重たい手ざわり。鼻腔を突く濃密な鉄の匂い。絶望と後悔の中で血溜まりに伏し、ただ慟哭するしかなかった、あの救いのない敗北の未来。
「あ……あ……ぁああっ……!?」
バナードは呼吸を忘れ、全身から冷や汗を吹き出させながら絶叫した。
あまりにも生々しい殺人と死の記憶。胸を押し潰すような凄惨な絶望感が、老いた彼の魂を激しく揺さぶる。
「ジュ、ジュリアン様……!血が……ジュリアン様が刺されて……工房が……っ!!」
バナードは恐怖に引きつった顔で、必死に床を這い擦りながら視線を上げた。
そこにあったのは――。
階段の上で蒼白な顔のまま膝を折り、言葉を失って立ち尽くしている、傷ひとつないジュリアンの姿であった。
「な……バナード、何を言っている……?」
ジュリアンは胸元を抑え、自分の身体に刃が刺さっていないことを確かめるように震える手で服を撫でていた。彼は第一時間軸の惨劇の記憶を持たない。だが、バナードが上げた狂乱の叫びと、先ほどロッソが解き明かした「振り子の裏の真実」に打ちのめされ、ただ呆然と立ち尽くしていた。
「あ……生きて……いらっしゃる……」
バナードの瞳から、大粒の涙が溢れ出した。
彼は自分の手を見つめた。そこには血など一滴もついていない。床にも、ホールクロックの台座にも、朱い血溜まりなど存在しないのだ。
流れたはずの血。失われたはずの命。破滅したはずの工房。
それらすべてが、まるで初めから幻であったかのように消え去り、目の前には「誰も死んでいない」穏やかな、しかし決定的に救われた現実だけが横たわっていた。
バナードは二つの時間軸の記憶の狭間でガタガタと震え、やがてその理由を――いま目の前で起きた奇跡の正体を、完璧に知覚した。
視線の先。
吹き抜けの中央で、朱いのコートの裾を静かに揺らし、真鍮製の懐中時計を掌に収めている探偵の姿があった。
「ロッソ様……!貴方は……貴方様は……っ!」
バナードは床に頭を深く擦り付け、震える声で叫んだ。
「貴方は今、何をおやりになったのですか……!私は見ました……忘れません……!あの恐ろしい嵐の夜、ジュリアン様が血に染まり、エリオット様が狂気の中で絶望された、あの最悪の未来を……!だが……だが今、誰も死んでいない!この工房の命も、誇りも……すべてが救われたのが!!」
証人としての知覚。
第一時間軸での絶望を知る者だからこそ噛み締められる、書き換わった未来への圧倒的な歓喜と感謝。バナードの流す涙は、もはや恐怖のそれではなく、込み上げる救済への救いに震えるものであった。
ロッソはパチ、と懐中時計の蓋を閉じ、静かに吐息をついた。
「感謝なら、あの親方と……その愚直な弟弟子に言うんだね」
ロッソの脳裏にもまた、第一時間軸でジュリアンを救えなかった瞬間の強烈な悔恨と、いま目の前で歴史が正しく書き換わった手ざわりが、完璧に同期して重なっていた。
失敗した過去。だが、探偵の誇りを賭けて導き出したただ一言の論理が、惨劇の引き金が引かれる前に因果を打ち砕いたのだ。
「ジュリアン」
ロッソの冷徹な声に呼びかけられ、階段の上の兄弟子はビクリと身体を揺らした。
「先代マティアスの親方はお前に華やかな才能を与え、エリオットには泥臭い精度を託した。どちらが欠けても、あのホールクロックは時を刻めなかったんだ。……お前にその意味が分かるかい?」
「っ……あ……」
ジュリアンは唇を噛み締め、ゆっくりと頭を垂れた。
彼の矜持は打ち砕かれていたが、そこには弟弟子への見下しではなく、亡き師の深遠なる意図に対する敗北感と、改心の色が浮かんでいた。
床で号泣していたエリオットは、涙を拭いながら静かに立ち上がった。
彼が胸に抱きしめる真鍮の振り子は、ランプの火光を受けて温かな黄金色に輝いている。その瞳からは暗い屈託が完全に消え去り、職人としての誇りと、亡き師への揺るぎない愛が満ちていた。
長椅子の上では、ユキが静かに身体を起こしていた。
彼女の肌の異常な熱感は引き、不揃いだった呼吸もすっかり落ち着いている。色素の薄い瞳でロッソを見つめるその表情は相変わらず無機質であったが、その小さな手は、自らの役割を無事に終えた安堵を伝えるように、そっと自らの胸元に置かれていた。
カハン、カハン、カハン。
外された振り子の代わりに、エリオットが今一度慈しむように柱時計へと振り子を掛け直すと、巨大なホールクロックは再び、力強く規則的な時を刻み始めた。
密室を閉じ込めていた嵐の雨音が、どこか遠く、穏やかな夜の調律となって館を包み込んでいた。
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