7:その代償
世界から、すべての音が消失していた。
嵐が館の石壁を叩きつける豪雨の打撃音も、崩れ落ちた老番頭バナードの悲痛な咽び泣きも、血溜まりの中で息絶えたジュリアンと、その傍らで自暴自棄の叫びを上げていたエリオットの声すらも。
第一時間軸の惨劇の現場は、まるで硝子板の裏側に閉じ込められた一枚の絵画のように急速に色彩を失い、白く、冷たく凍りついていく。
その歪んだ「いま」の真ん中で、少女ユキの身体に異変が起きていた。
「っ……あ……っ……!」
ユキの小さな唇から、押し殺した短い喘ぎが漏れた。
彼女の純白の髪が、不可視の時空の圧力に煽られるように激しく逆立ち、透き通るほどに白い肌の表面を、蒼白い光の亀裂のような粒子が駆け巡る。
時間遡行――過去の因果を書き換えるため、未来の演算結果である「一言」を過去へ送るための干渉作用。
それは、過去と未来を繋ぐ唯一の「境界」であるユキの肉体へ、凄まじい物理的負荷となって襲いかかっていた。
ユキの呼気が白く凍りつき、胸元が激しい上下を繰り返す。彼女の心拍数は跳ね上がり、華奢な骨格をきしませるほどの激痛が、全身の神経細胞を内側から焼き焦がしていく。時空の位相がズレる摩擦熱が、彼女の可憐な皮膚を赤く苛んでいた。
「くっ……ユキ!」
ロッソは咄嗟に手を伸ばし、崩れ落ちそうになるユキの細い肩をしっかりと引き寄せた。
その身体は、氷のように冷たく冷え切っていると同時に、内部からは恐ろしいほどの熱を発していた。ユキの指先が、痛みを耐え忍ぶようにロッソのコートの袖を強く、白くなるまで握りしめる。
「すまない……ユキ。私の不甲斐なさに、君を巻き込んで……!」
ロッソの胸を、猛烈な葛藤と自責の念が再び叩いた。
自分が未然に事件を防げていれば、この小さな少女にこんな苦痛を強いずに済んだのだ。探偵としての自負を傷つけられた屈辱以上に、自らの不甲斐なさゆえに相棒の肉体を苛んでいるという事実が、ロッソの苛烈な魂を何よりも深く傷つけていた。
だが、ユキは小さく首を振った。
汗に濡れた前髪の間から覗く、色素の薄い瞳。その奥には、一切の怨嗟も無かった。ただ、ロッソの悔恨と、過去を覆そうとする苛烈な執念を全身で受け止め、自らの役割を果たそうとする静かな意思だけが宿っていた。
「……気に、しないで……ロッソ」
ユキの断切れ途切れる声が、ロッソの耳元に届く。
「あなたが……折れない限り。……私は……届ける……」
「……ああ。頼む!」
ロッソは歯を食いしばり、ユキの身体を抱く腕に力を込めた。
過去の自分へ送るべき、因果を撃ち抜くただ一つの因子。
「ユキ……言葉を送れ。『振り子の裏を見ろ』だ!」
ロッソが叫んだ瞬間、ユキの身体が激しく跳ね上がった。
光の粒子が爆発的に弾け飛び、世界の境界線が完全に溶解する。第一時間軸の血の海と絶望の記憶が、濁流となって時の彼方へと押し流されていく。
時空の隔壁を穿ち、ひとすじの光の線となって、言葉が過去の闇へと落ちていく――。
◇
――ガツンッ!!
目に見えない巨槌で叩かれたかのような、凄まじい衝撃が過った。
工芸都市の夜。
嵐の密室となった『針の館』の中央ホール。
暖炉の薪がパチパチと爆ぜる赤黒い火光と、吹き抜けにそびえ立つ巨大なホールクロックの重厚な往復運動音。そこはまだ朱い血溜まりも、悲劇も起きていない第二時間軸の「第三章の夜」であった。
だが、その静寂を切り裂くように、過去のロッソの隣に立っていたユキの可憐な肉体がガタガタと激しく跳ね起きた。
「かはっ……!は……っ……ぁ……っ!!」
ユキの口から、血を吐き出すような吐息とともに凄絶な悲鳴が漏れた。
彼女の膝から一瞬で力が抜け、石畳の床へ崩れ落ちる。白磁のようだった頬は血の気が完全に引き、代わりにあたかも高熱に侵されたかのような異常な赤みが肌の表面に浮き上がっていた。胸元が破裂せんばかりに激しく上下し、細い指先が床の石目を引っ掻くように震えている。
「ユキ!?おい、どうした!!」
ロッソは驚愕し、膝をついて崩れ落ちるユキの身体を抱き起した。
腕の中に伝わってきたのは、刺すような熱感と、全身の筋肉が硬直して痙攣している恐ろしいほどのショック状態だった。
過去のロッソには、なぜ突如としてユキの肉体がこれほどの過負荷に見舞われたのか、その理由は分からない。しかし、未来からの「干渉」が起きたこと、そしてユキがその代償として命を削るほどの重痛をその身体に引き受けたのだという事実が、抱きかかえる腕を通して生々しく叩きつけられていた。
「はっ……はっ……っ……」
ユキは苦しげに喉を鳴らし、浅い呼吸を繰り返しながら、痛みに耐えるようにロッソの衣服を固く掴んだ。その指先は氷のように冷たく、しかし皮膚の下の脈拍は狂ったように鼓動している。
受信の過負荷。時空を超えて叩きつけられた干渉信号は、過去の受信体であるユキの肉体をも内側から激しく損なっていた。そのダメージは一時的なものではなく、激しい呼吸の乱れと疲労の重圧となって、彼女の身体に深く刻み込まれている。
ユキはうわごとのように焦点の定まらない瞳を彷徨わせ、震える薄い唇を必死に動かした。
「……ふ……振り子の……裏を……見ろ……」
絞り出されたその一言は、掠れ、途切れ途切れでありながらも、ロッソの耳孔へ強烈に差し込まれた。
パチン。
ロッソが手にしていた真鍮製懐中時計の蓋が、指の硬直によって閉じられる。
「『振り子の裏を見ろ』……?」
ロッソは激しい動悸を抑えながら、腕の中でぐったりと息を荒らげるユキを見つめた。
ユキの肌に浮き出た熱は引き切らず、その身体は今なお激しいショックの余波に震えている。これほどの苦痛とダメージを残留させてまで届いた、たった一言の言葉。
そこに、何の意味も無いわけがない。
ロッソの脳内で、氷のように研ぎ澄まされた思考のギアが爆発的な速度で噛み合い始めた。
(ユキの肉体にこれほどの代償を支払わせてまで届いた言葉……。なぜ『振り子』だ?あのホールクロックにおいて、振り子が持つ意味とは何だ?そして、なぜ『裏』を見る必要がある……?)
惨劇の記憶を持たない過去のロッソ。
しかし、相棒が負った生々しい負傷とダメージの重みが、探偵の魂に火を点けていた。
与えられた手がかりは、わずか一言。
だが、ロッソの手元にはすでに現地で集めた手札――マティアスの美学、銘のない完成品ホールクロック、そして弟弟子エリオットの抱く歪んだ屈託――が存在している。
ロッソは震えるユキを静かに長椅子へと横たえると、朱のコートの裾を翻して立ち上がった。
その瞳には、ユキの痛みを無駄にはさせないという、冷たく燃えさかる殺気すら孕んだ意思が宿っていた。
「……受け取ったよ、ユキ。君が命がけで運んできたその答えを」
過去のロッソはポケットの中で懐中時計の蓋をパチと一回鳴らし、嵐の音が増すホールの暗闇――その奥にある作業場を見据えた。
凶器が出現する前の過去。狂気の引き金が引かれる手前の時間。
探偵による、自力での真相解明と未然の混沌が、いま静かに始まりを告げた。
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