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6:一言の選定

 吹き抜けのホールに流れる空気は、死の匂いと鉄の冷たさに濡れていた。


 石畳の上に広がった黒ずんだ血溜まり。二度と動くことのない兄弟子ジュリアンの遺体と、その傍らで自らの血塗られた両手を見つめたまま、魂の抜け殻となって膝をつく弟弟子エリオット。そして、崩れ落ちた老番頭バナードの悲惨な咽び泣き。


 カハン、カハン、カハン。


 惨劇の血を浴びた巨大なホールクロックだけが、三メートルの巨躯を揺らし、何事もなかったかのように正確な時を刻み続けている。その振り子の無機質な往復運動が、逃れようのない第一時間軸の「敗北」を刻印していた。


 ロッソは懐中時計を掌の中で強く握りしめたまま、倒れ込むエリオットの姿を冷酷なまでに冴え渡った瞳で見つめていた。


(……私の負けだ。だが、敗北のままで終わらせはしない)


 胸を刺し貫く強烈な悔恨。未然に惨劇を防げなかった不甲斐なさ。その生々しい激憤を、ロッソは氷のような純粋な論理へと置換していく。死体が出た後で動機を解き明かすなど、探偵の仕事ではない。しかし、過去の自分へ送るべき「解」を導き出すためには、いま目の前にある惨劇の構造を完璧に解体しなければならなかった。


(エリオット……お前がジュリアンを刺し殺した動機(Why)。それは『先代マティアスから愛されず、拒絶され、何ひとつ遺してもらえなかった』という強い嫉妬と絶望だ)


 ロッソの脳内で、これまでに集められたすべての手札が高速で噛み合っていく。


 第一の手札――老番頭バナードの言葉。

『マティアス様は、完成した作品には必ずご自身の銘と、受け取る者への言葉を刻む』


 第二の手札――ホールクロックの存在。

 この巨大な柱時計は、一分の狂いもなく完璧に動作している。完璧主義者であったマティアスにとって、これは疑いようもない「完成品」だ。


 第三の手札――ロッソ自身の真鍮製懐中時計。

 マティアスが手がけたその時計の銘は、表の文字盤やケースではなく、日常的に手入れをし、内部を清掃する者しか触れない『裏蓋の内側』に刻まれていた。マティアスという男は、気取った所有者ではなく『その時計を日常的に手入れする者』だけに伝わる場所にメッセージを伏せる癖があった。


 そして、先ほど惨劇の渦中でエリオットが叫んだ第四の手札。

『あの巨大な振り子のコンマ数グラムの重量バランスを毎日毎日、血の滲む思いで微調整し続けてきたのは……師匠からそれを任されていたのは、僕だけだったんだ!!』


 パチン。


 ロッソの指先が懐中時計の蓋を鳴らす。


(……完璧に繋がったよ、親方)


 ロッソは冷たい吐息をついた。


 銘がないのではない。

 マティアスは、ホールクロックの心臓部であり、毎日エリオットだけが触れ、微調整を重ねていた『振り子の裏側』に、最初から銘と弟子への言葉を刻んでいたのだ。


 透かし彫りや装飾を担当したジュリアンには、華やかな外観を。

 だが、時計の精度という最も本質的な部分を泥臭く支え続けたエリオットには、その手入れの動線である「振り子の裏」に、職人としての最大の感謝と継承の言葉を潜ませていた。


(見事なまでの『事実誤認』……!エリオット、お前は愛されていた。誰よりも信頼され、その手を必要とされていたんだ。だというのに、お前は己の不器用さと屈託ゆえにその愛に気づかず、刃を握りしめた)


 確信。100%の確信が、ロッソの胸中に打ち立てられた。

 時計を開けて実物を確認するまでもない。与えられた手札と論理だけで、真実はそこにしか存在し得なかった。


 エリオットの殺意(Why)は、完全な事実誤認に基づいている。

 もし、彼が刃を抜く前に「自分は最初から愛されていた」という真実を突きつけられれば、彼の殺意はその根底から崩壊し、未然に消滅する。


「……過去の私へ送る『一言』の演算、完了だ」


 ロッソは静かに振り向き、後ろに立つ少女ユキを見つめた。


 ユキの純白の髪が、嵐の気圧と時空の歪みでかすかに揺れている。彼女の小さく華奢な肉体は、未来からの干渉信号を受け止めるための「境界」として、すでに緊張に固くなっていた。


「ユキ。過去の私には、惨劇の記憶も、エリオットが振り子を担当していたという事実も届かない。だが……この一言さえ届ければ、過去の私がその場の手札から自力で真相へ辿り着く」


「……うん」


 ユキは小さく頷いた。その色素の薄い瞳に、ロッソの激憤と覚悟が映り込む。


「なにを……送るの?」


 ロッソは懐中時計を固く握りしめ、過去の因果を穿つただ一つの言葉を口にした。


「『振り子の裏を見ろ』」


 一分の無駄もない、思考を反転させるための不可逆の一言。


「頼むよ、ユキ。惨劇の引き金が引かれる前……あの男が狂気に呑み込まれる手前の過去へ、この一言を打ち込んでくれ!」


「……了解」


 ユキが両目を静かに閉じると同時に、彼女の全身から淡く蒼白い光の粒子が立ち上った。

 世界からすべての音が消え去り、第一時間軸の血の海と雨音が、果てしない歪みの彼方へと遠のいていく。


 過去への干渉――歴史を未然に書き換えるための時間が、いま動き出そうとしていた。

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