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5:針の館の惨劇(後編)

  鈍く重い打撃音が、雷鳴轟くホールに惨劇の到来を告げた。

 革手袋に握られた裁断刀の肉厚な刃が、逃げ惑うジュリアンの胸元深くへと叩き込まれていた。


「がっ……あ……!?」


 ジュリアンの喉から、絞り出すような短い喘ぎが漏れた。透かし彫りの文字盤や繊細なギアを設計していたその両腕が、空を掻くように泳ぎ、やがて力なく石畳の床へと落ちる。

 彼の身体から溢れ出た鮮血が、吹き抜けにそびえ立つホールクロック黒檀の台座と、整然と並ぶ真鍮パーツの上に容赦なく飛び散った。金銀の飾りが血の赤に染まり、美しいケースの足元に黒い血溜まりが急速に広がっていく。


「ひああああああっ!?ジュリアン様!ジュリアン様ぁっ!」


 老番頭バナードが狂乱の悲鳴を上げ、手にしていたランプを床に落とした。破裂したガラスから油が散り、小さな炎が床の血溜まりの縁で揺らめく。バナードは膝から崩れ落ち、頭を抱えて震え上がった。


 刃を振り下ろしたエリオットは、突如として全ての動きを止めていた。

 手に残る、肉と骨を断ち切った禍々しい感触。赤く濡れた自らの手袋と、二度と動くことのない兄弟子の背中を見つめたまま、彼の血走った瞳から怒気と狂気が急速に引いていく。

 代わりに押し寄せてきたのは、血管が凍りつくような底なしの戦慄と絶望だった。


「あ……ぁ……ジュリアン……?」


 エリオットの指から刃物が滑り落ち、カチャンと甲高い音を立てて石畳を転がった。

「嘘だ……僕は……僕はただ……僕の十年間を……認めてほしかっただけで……」

 彼はガタガタと全身を激しく震わせ、崩れるようにジュリアンの横へ倒れ込んだ。血に染まった兄弟子の肩を掴み、狂ったように揺さぶる。

「起きてくれ、ジュリアン!頼むから目を開けてくれ!嘘だと言ってくれよ!!」


 だが、答える者は誰もいない。

 嵐の雨音と、ホールクロックの冷酷な振り子音だけが、取り返しのつかない罪の確定を告げるように響き渡る。

 エリオットは頭を抱え、血の海の中で獣のような慟哭を上げた。

「師匠ぉぉぉっ!なぜなんだ!なぜ僕に何も遺してくれなかったんだ!僕が……僕が何をしたっていうんだぁぁっ!!」


 愛執と屈託が生み出した絶望。歪んだ事実誤認によって引き起こされた殺意は、一人の天才の命を奪い、遺された男の魂をも完全に破壊し尽くしていた。


 その惨劇の渦中で、ロッソは立ち尽くしていた。


 彼女の顔から、一切の血の気が失せていた。

 ポケットの中で握りしめられた右手が、血が滲むほどに固く絞り上げられている。指先が、真鍮製懐中時計の金属面を痛いほどに圧迫していた。


(死なせた……。目の前で、人間が一人……)


 パチ、パチ、パチ、パチ。


 激しく、規則を失った速度で懐中時計の蓋が跳ね起き、閉じる。その不快な金属音は、彼女の胸中で渦巻く猛烈な憤怒と屈辱の鼓動そのものだった。


 ロッソにとって、事件が起きてから犯人を暴く探偵など何の意味もない。死体が出てから真実を語るなど、ただの遅すぎた傍観者に過ぎないのだ。事実誤認を解体し、惨劇の引き金が引かれる前に未然に防ぐこと――それこそが、彼女が自らに課した唯一の美学であり、探偵としての存在理由だった。


 それだというのに。


 あと一歩。あと数秒。

 手札のピースが噛み合うのが、ほんのわずかに遅かった。

 エリオットの心が悲鳴を上げ、刃を握りしめる前に、なぜその言葉を届けてやれなかったのか。先代マティアスの不器用な情愛を、なぜもっと早く見抜いてやれなかったのか。


「くっ……!」


 ロッソの唇から、絞り出すような吐息が漏れた。

 自らの甘さ、自らの洞察の遅れに対する、強烈なまでの悔恨。

 やり直せばいいなどという軽薄な居直りなど、そこには欠片も存在しなかった。いま目の前で流された朱い血は本物であり、エリオットの絶望の叫びは、探偵ロッソの無力さを完璧に糾弾する刃となって彼女の胸を深く抉り穿っていた。


「私の……負けだ……」


 ロッソは蒼白な顔を伏せ、自らの不甲斐なさに激しく歯噛みした。ロッソの唇から、血の混じる吐息が漏れる。

 目の前で失われた命。あと一歩、手がかりの噛み合わせが遅れたことによる最大の計算エラー。自らの洞察の甘さが引き起こした結末に、探偵のプライドはへし折られていた。

「私の……負けだ。手札の表面に惑わされ、あの男の魂の悲鳴を聞き落とした……!」

 蒼白な顔を伏せ、激しく奥歯を噛み締めるロッソの横で、白銀の少女が静かにその手をとった――


 純白の髪を持つ少女――ユキだった。


 ユキは一切の感情を表に出さない無機質な存在でありながら、その透き通った瞳で、ロッソの背中に渦巻く凄まじい悔恨と、己を許し得ない探偵の執念をじっと見つめていた。

 もしロッソが「失敗しても巻き戻せばいい」などと己の敗北を軽んじる愚者であったなら、ユキが自らの肉体を損なうほどの負担を背負う理由など無かっただろう。


 だが、ロッソは本気で悔いていた。

 未然に救えなかった一人の人間の死に、自らの魂を切り刻むほどの激憤を覚えている。


「……ロッソ」


 ユキの小さな指先が、ロッソのコートの袖をかすかに掴んだ。


「まだ……終わっていない」


 ユキの声は小さかったが、嵐の音を突いてロッソの胸に深く届いた。


「あなたが……そこまで悔やむなら。……私の身体を、使って」


 時間遡行。それは世界の理を歪め、干渉の媒介となるユキの華奢な肉体へ凄まじい激痛と負荷を強いる禁忌の業だ。だが、ユキはその苦痛を受け入れることを自ら示していた。自らの美学を汚され、血を流して憤るこの探偵の冷徹な正義を、信じているがゆえに。


 ロッソは深く、深く息を吐き出した。

 閉じた指を開き、握りしめていた真鍮の懐中時計を正面に掲げる。

 その瞳から迷いと悔恨の陰りが消え去り、過去の因果を根底から書き換えるための、苛烈で研ぎ澄まされた冷酷な理性が舞い戻っていた。


「……ああ。すまないね、ユキ」


 ロッソは低く、鉄の響きを持つ声で告げた。


「あの男の誤解を……この失策を、絶対に過去へ持ち越させはしない。今度こそ未然に、あの狂気のギアを叩き潰す!」


 敗北の血に塗れた第一時間軸の暗闇の中で、過去を覆すための唯一の『一言』を導き出す計算が、探偵の頭脳で静かに始まった。

感想いただけると狂喜乱舞しますので感想くださいください

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