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4:針の館の惨劇(前編)

 深夜二時。

 嵐の猛威は衰えるどころか、激しさを増していた。


 石造りの『針の館』を震わせる凄まじい雷鳴と、鉄の格子を打つ突風の悲鳴。館全体が冷たく重い暗闇に沈む中、中央ホールの暖炉の残り火だけが、赤黒い灰の底で不気味に蠢いていた。


 カハン、カハン、カハン。


 漆黒の暗闇の中で、三メートルの巨躯を誇るホールクロックだけが、何事も起こっていないかのように正確無比な時を刻み続けている。その振り子の重厚な往復運動が、空間全体を刻一刻と死へと追い詰める拍動のようであった。


 ホールの一角、冷え切った長椅子に腰掛けたロッソは、暗闇の中で指先を静かに動かしていた。


 パチン、パチン。


 親指の腹で真鍮製懐中時計の蓋を弾く。薄暗がりの中、文字盤の針は狂いなく動いている。


(マティアスの親方……あんたの仕事に狂いはない。この懐中時計がそうであるように、あのホールクロックも寸分の隙もなく完成している。だが、なぜ『銘』がない?銘のない完成品など、あんたの美学が許すはずがない)


 銘は存在している。ただ表に出ていないだけだ。

 だが、その「隠された場所」を特定するための決定的な手がかりが、まだ見出せていなかった。


「……ロッソ様、まだお休みになられませんか」


 暗がりの中から、ランプを手にした老番頭バナードが姿を現した。その表情は蒼白で、ランプの火が揺れるたびに目元の深い影が蠢く。


「こんな嵐の夜だ、バナード。眠れるわけがないだろう。……それに、館の空気が重すぎる」


「ええ……。エリオット様もジュリアン様も、自室にお閉じこもりになったきり出ておられません。ですが、嵐が明けたら法官が来てしまう。この館のすべてがジュリアン様のものになってしまうのです……」


 バナードが痛ましげに言葉を漏らした、まさにその時だった。


 ――ガタンッ!!


 頭上の二楼、ジュリアンの自室がある廊下から、激しい物の割れる音と不穏な足音が響き渡った。


「な、なんです……!?」


 バナードが怯えた声を上げる。ロッソは即座に立ち上がり、背後のユキに視線で合図を送った。ユキは言葉もなく、影のようにロッソの後に続く。


 階段の上から、荒い息遣いとともに駆け下りてくる影があった。


 兄弟子のジュリアンだった。先ほどの高慢な態度は跡形もなく消え失せ、その顔は恐怖に歪んでいた。上着は乱れ、胸元を抑えながら手すりにしがみつくようにして階段を転がり落ちてくる。


「ひっ……ひぃっ!やめろ、来るな!エリオット、狂ったのか!?」


「逃げるなよ、ジュリアン……!明日になれば僕の十年間が全部消えるんだ!お前に奪われるくらいなら……!」


 階段の上に現れたのは、エリオットだった。


 彼の右手には、革の手袋で固く握りしめられた一枚の刃物が握られていた。それは職人が真鍮や鋼の厚板を切り出すために使う、厚身で重厚な大型の裁断刀であった。鋭利に研ぎ澄まされた刃先が、バナードの掲げるランプの火を反射して冷たく光っている。


 エリオットの目は完全に血走り、正気を失っていた。絶望と屈託が彼を呑み込み、狂気の殺意へと変貌していた。


「エリオット様!おやめください!何ということを……!」


 バナードが悲鳴を上げて叫ぶが、エリオットの耳には届かない。彼はゆっくりと階段を下り、逃げ場を失ってホールの中央――巨大なホールクロックの前に倒れ込んだジュリアンへと追いすがっていく。


「ジュリアン、お前は言ったな!僕には才能がない、雑用係だと!師匠は僕に何ひとつ残さなかったと!」


 エリオットは刃物を突きつけ、血を吐くような怒号を上げた。


「違う!僕だってこの時計に命を削ってきたんだ!ジュリアンは透かし彫りをしただけだ!だが、あの重い黒檀の枠の中で、一分の狂いもなく時を刻ませるために……あの巨大な振り子のコンマ数グラムの重量バランスを毎日毎日、血の滲む思いで微調整し続けてきたのは……師匠からそれを任されていたのは、僕だけだったんだぞ!!」


 エリオットのその叫びが、雷鳴の轟くホールに激しくこだました。


 ――振り子の微調整。

 ――任されていたのは、僕だけだった。


 その瞬間、ロッソの脳裏で鮮烈な閃光が走った。


 パチンッ!


 ロッソの指先が、ポケットの中の真鍮製懐中時計の蓋を強く弾く。


 欠けていた最後のピース。

 マティアスの美学、完璧に動く時計、そして――エリオットだけが担っていた領域。

 すべての手がかりが一本の論理の線となって繋がり、虚空に揺れるホールクロックの影と重なった。


(……そうか。繋がったよ、マティアスの親方)


 ロッソの瞳に、冷たい確信の光が宿る。

 開けるまでもない。確かめるまでもない。銘の場所も、先代がそこに伏せた真意も、探偵の頭脳の中で完全に結実していた。


 だが――その至高の論理が完成した瞬間は、あまりにも遅すぎた。


「死ねぇっ、ジュリアン!!」


「ひぁああああっ!?」


 狂気と誤解に支配されたエリオットの腕が振り下ろされ、研ぎ澄まされた重厚な刃が、暗闇を切り裂いた。

感想いただけると狂喜乱舞しますので感想くださいください

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