3:閉ざされた工房と狂気の醸成
黄昏が通り過ぎると、工芸都市の夜は急激に冷え込み、空を覆った鉛色の暗雲が容赦のない大雨を街に降らせ始めた。
叩きつけるような雨粒が『針の館』の堅牢な石壁を濡らし、雷鳴が遠くで地鳴りのように響く。風が尖った悲鳴を上げて鉄彫刻の風見鶏を激しく回転させ、館の外の世界との繋がりを雨の幕で完全に途絶させていた。
「ロッソ様、今夜は激しい嵐になりそうでございますな。館の重い扉はすべて施錠いたしました。明朝まで、外へ出ることも、何者かが侵入することも不可能にございます」
老番頭バナードが、重々しい真鍮の鍵束を腰のベルトに収めながら、消沈した声で告げた。
館の外周を囲む窓には分厚い鉄製の格子が嵌め込まれ、頑丈なオーク材の扉は内側から重い閂が下ろされている。館全体が、荒れ狂う外界から遮断された一種の「密室」と化していた。
しかし、閉ざされた空間の内側に漂う空気は、外の嵐よりも遥かに殺伐としていた。
中央ホールでは、炉火の薪がパチパチと爆ぜる音と、吹き抜けにそびえ立つ巨大なホールクロックの重厚な振り子音が、不気味な不協和音を奏でている。
「弁護士の手配は済んでいる」
暖炉の傍らに立つ兄弟子ジュリアンが、ワイングラスを手に、冷酷な笑みを浮かべて言った。その瞳には、すでに勝者としての高慢さが色濃く宿っている。
「明朝、嵐が去り次第、街の法官がこの館を訪れる。師匠の明確な遺言書が存在しない以上、この工房の全設備、設計図、そして師匠が遺した未完のホールクロックの所有権は、筆頭弟子である僕に一括して委譲される手はずだ」
「なっ……なんだと……!?」
作業場から戻ってきた弟弟子エリオットが、血の気の引いた顔で叫んだ。
「ジュリアン、勝手な真似をするな!師匠の遺産はまだ整理すら終わっていない!あのホールクロックだって、銘が刻まれていない以上、誰のものとも決まっていないはずだ!」
「いい加減に現実を見たらどうだ、エリオット」
ジュリアンは冷たく鼻で笑うと、ワイングラスをあおった。
「銘がない?フン、だからこそだよ。師匠は最期に正気を失っていたか、あるいは銘を刻む価値すら拒んだのだ。才能のないお前になど、何ひとつ分け与えるつもりはなかったという何よりの証拠じゃないか。お前がここに残れるのは、僕が哀れんで雑用係として雇ってやる間だけだ」
「くっ……!ジュリアン……!」
エリオットの全身が激しく震え、その両拳から血が滲むほど固く握りしめられた。彼が捧げてきた十年間、耐え忍んできた無数の夜、そのすべてが「存在しなかったもの」として消し去られようとしている。
エリオットの目から光が消え、底知れない黒い憎悪と絶望がその瞳を塗り潰していくのを、ロッソは見逃さなかった。
(追い詰められた人間が抱く殺意……。だが、まだ足りない)
ロッソは壁にもたれかかり、真鍮製の懐中時計を取り出した。
パチ、パチ、パチ。
爪先で蓋を弾く不快でない金属音が、緊迫したホールに規則的に響く。
(手札は揃いつつある。先代マティアスの親方は完成品には必ず銘と言葉を刻む主義だった。そして、あのホールクロックは今も寸分の狂いもなく動いている……完璧な完成品としてね。ならば銘は『どこか』にある)
しかし、ロッソの冷徹な頭脳をもってしても、この時点では「どこにあるか」を確定させる論理の糸口が見つかっていなかった。
マティアスが銘をどのような仕掛けで伏せる癖があったのか。
そして、あの巨大なホールクロックの複雑極まる内部機構において、どのパーツが誰の領域であったのか。
それらの不可欠なピースが欠けている以上、今ここで「お前は誤解している」とエリオットを止めることはできない。無理に言葉を重ねたところで、追い詰められた彼の屈託を解体することなど不可能だった。
「ロッソ様……」
傍らで様子を見守っていた老番頭バナードが、顔を歪めて小声で囁いた。
「エリオット様の目つきが……尋常ではございません。あの方は不器用ですが、一度思い詰めると周りが見えなくなるお方。今夜、何か恐ろしいことが起きるのでは……」
「……バナード、焦るんじゃない」
ロッソは蓋をパチンと閉め、ポケットに収めた。
「歪んだギアは、負荷がかかった時に初めてその『歪み』の正体を露わにする。私たちが今すべきなのは、その歪みがどこにあるかを冷徹に見極めることだ」
その横で、純白の髪を持つ少女ユキは、嵐の窓に映る自分の影を無感情に見つめていた。彼女の存在はこの館の誰からも意識されていないかのようだったが、その静かな肉体は、やがて訪れる「刻限」の圧力をすでに感じ取り始めているかのようだった。
「それじゃあ、僕は自分の部屋へ戻らせてもらうよ」
ジュリアンは勝ち誇った笑みを浮かべたまま、ホールを横切って二楼の自室へと階段を上っていった。
「明日からは、この館のすべてが僕のものだ。雑用係のエリオット、精々今夜のうちに荷物でもまとめておくんだな」
バタン、と重いドアが閉まる音が響く。
残されたエリオットは、中央に鎮座するホールクロックを呆然と見上げていた。
カハン、カハン、カハン。
時計の鐘の音が、彼をあざ笑うかのように重く響く。
「……師匠……なぜなんだ……。なぜ僕を……そこまで拒絶したんだ……」
絞り出すようなエリオットの低音は、雷鳴の音にかき消されていった。彼はフラフラとした足取りで、暗い作業場の奥にある自室へと消えていく。
その背中には、もはや職人としての誇りは残されていなかった。そこにあるのは、自暴自棄となった男が抱く、暗く研ぎ澄まされた刃の気配だけであった。
夜は深まり、館内のランプの灯りがひとつ、またひとつと消されていく。
閉ざされた密室の中で、惨劇へのカウントダウンが静かに始まろうとしていた。
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