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2:過剰な道具と潜む刻印

 巨大なホールクロックの規則的な拍動が響く吹き抜けをあとにし、ロッソたちはバナードの案内で、館の奥に位置する職人たちの作業場へと足を踏み入れた。


 そこは、時の精密世界を形づくるための血と汗、そして無数の金属の削り屑が充満する空間であった。


 長い木製の作業台が平行に並び、棚には大小さまざまなギア、ゼンマイの帯、ガラス製の油壺、極細のドライバーやヤスリが几帳面に分類・整列されている。壁際には、滑車とベルトで駆動する足踏み式の金属旋盤が据え付けられていた。


 ロッソはゆっくりと室内を歩きまわり、作業台の上に乱雑に、あるいは厳重に置かれた工具群に細い指先で触れていった。


「……ほう」


 ロッソはある作業台の脇で立ち止まり、そこに置かれていた一組のタガネと、手のひらサイズの小さな旋盤用刃具をつまみ上げた。


 彼女の鋭い瞳が微かに細まる。


 そのタガネは、地元の鍛冶屋が打つ一般的な鋼とは明らかに異なる、鈍く青みがかった銀色の光沢を放っていた。刃先は毛髪の数分の一ほどに細く研ぎ澄まされながら、指の腹で圧をかけても撓みひとつ生じない異様な硬度を保っている。使い込まれているはずなのに、刃こぼれひとつ見当たらない。


 ロッソは指先でその表面を撫でた。手仕事の温もりが残る工具類の中で、それだけがどこか冷たく、異様なほど均一な手ざわりを返してくる。


 ポケットから小さなルーペを取り出し、タガネの持ち手、その肉眼では傷としか見えないほど微小な基部を覗き込んだ。


 そこに刻まれていたのは、複雑に噛み合う三つの歯車と、それを貫く一本の針をあしらった、緻密な紋章――『ネロ商会』の印であった。


(……ふむ。手仕事の街にしては、少しばかり整いすぎた道具だね)


 胸中で小さく呟く。それはまだ「陰謀」と呼べるほどのものではなく、目ざとい探偵の琴線がほんのわずかくすぐられた、小さな不調和の感触に過ぎなかった。


「ロッソ様、何か気になられますか?」


 後ろから追いついてきたバナードが、不審そうに尋ねた。


「いや、実に質のいい道具だと思ってね。マティアスの親方は、こうした道具もご自分で選んでいたのかな?」


「ええ……ここ数年、街に新しく入ってきた『ネロ商会』という大口の旅商から仕入れておられたようです。先代は『これほど硬く、狙った通りに削れる鋼は珍しい』と、感心して使っておられました」


「なるほど。職人にとって、思い通りに動く道具は何よりの味方だからね」


(職人の手仕事と情愛を尊重した親方が、なぜこれほど冷酷に均一化された道具を選んだ?……まるで誰かが、職人の誇りを効率という名の数式で塗り潰そうとしているかのようだがね)


 ロッソはタガネを静かに元の場所へ戻すと、作業場のさらに奥、冷たい空気の澱む個室のドアへと視線の向きを変えた。


 そこは、弟弟子エリオットの個人作業スペースであった。


 半開きになった扉の隙間から、ガリ、ガリ、と金属を削り落とす鈍い音が一定の周期で漏れ聞こえてくる。ロッソはドアを押し開け、中に足を踏み入れた。


 部屋の中央では、エリオットが油の染みついた革のエプロンを身に纏い、ランプの灯りの下で真鍮のパーツを無心に磨いていた。彼の手元には、傷だらけになった作業日誌と、先代マティアスが遺したとされる設計図の写しが広げられている。


「……何か用かい。探偵さん」


 エリオットは手を止めず、削り屑の飛び散る作業台から顔も上げずに冷たく言った。その声には、先ほどジュリアンに向けた激憤の残り火と、根深い疲れが混ざり合っている。


「邪魔をするよ、エリオット。少し君と話がしたくてね」


 ロッソは懐中時計を取り出し、パチ、と蓋を鳴らした。


「先代マティアスについての話だ。君にとって、親方はどんな師だった?」


 エリオットの手が、ピタリと止まった。

 彼は真鍮のパーツを乱暴に作業台へ叩きつけると、血走った目でロッソを睨みつけた。


「師……?そんな綺麗事で呼べる関係じゃないさ。あの人は、ただの冷酷な絶対者だった」


「冷酷、か。兄弟子のジュリアンは、先代を至高の恩師と仰いでいるようだがね」


「ジュリアンはそうだろうよ!」


 エリオットは自暴自棄な嘲笑を浮かべ、自分の荒れた両手を突き出した。指先は真っ黒に汚れ、爪の間には油がこびりつき、無数の小さな擦り傷が赤く腫れている。


「ジュリアンには繊細な仕掛けの組み上げや、美しい文字盤の彫刻……職人としての『華』がある仕事ばかりが与えられた。師匠はいつだってジュリアンの才能を絶賛し、新しい設計図を渡していたんだ。……だが、僕に与えられたのは何だ?」


 エリオットは壁棚に並ぶ重厚な振り子や、巨大なゼンマイの束を激しく指さした。


「重い金属塊の粗削り、振り子の重量の微調整、歯車と歯車の噛み合わせを何千回も確認するだけの退屈な作業……!僕がどれだけ血を吐く思いで試作品を持ち込んでも、師匠は一度だって褒めてくれなかった。『やり直せ』『重量がコンマ数グラム狂っている』『磨きが甘い』……それだけだ!」


「ふむ……」


「あの人は僕のことなんて、一度も認めていなかったんだ!不器用で、才能のない僕を嫌い、見捨てていた!あのホールクロックだってそうだ!」


 エリオットの胸が激しく上下し、その瞳に歪んだ憎悪の涙が浮かぶ。


「ジュリアンには華やかな仕事ばかり与えられ、僕に与えられたのは重い金属の粗削りや、オイルにまみれて歯車を掃除するだけの汚れ仕事だ!師匠は僕の技術なんて一度も褒めてくれなかった!」


「銘がないことも、君にとっては『先代が自分を拒絶した証』に見えるわけだね?」


「そうだ!師匠は最後まで僕に何も遺さなかった!銘すら刻まずに死んで、ジュリアンに工房のすべてを譲るような状況だけを残していったんだ!僕が捧げてきたこの十年間は……全部無駄だったんだよ!」


 エリオットの叫びは、虚ろな作業室内に虚しく響き渡り、やがて冷たい静寂へと溶けていった。


 ロッソは彼の言葉を一切否定せず、ただ静かにその佇まいを観察していた。


 エリオットの手。油と傷に塗れたその指先。彼は自分を「不器用で粗雑だ」と卑下していたが、作業台に並べられた彼の手による振り子の試作品群は、寸分の歪みもなく精密に磨き上げられ、整然と並べられていた。


 それは不器用な男の仕事ではない。恐ろしいほどの執念と、几帳面な情熱がなければ決して到達できない、完璧な『精度』の証明だった。


(……なるほどね)


 ロッソは懐中時計の蓋を、パチ、と再び閉じた。


(見事なまでの『事実誤認』だ。愛されなかったのではない。認められなかったのではない。ただ、あまりにも愚直で不器用な師弟関係が、言葉の不足によって致命的にすれ違っている)


「話をしてくれてありがとう、エリオット。君の屈託の理由はよく分かったよ」


「……フン、冷やかしなら出て行ってくれ。僕はまだ、明日の調整作業が残っているんだ」


 エリオットは背を向け、再び真鍮のパーツを握りしめた。その背中は、自分を追い詰める暗い情念の重圧に押し潰されそうになっていた。


 部屋を出たロッソの隣に、気配もなくユキが寄り添う。


「……ロッソ」


「分かっているよ、ユキ。仕掛けの輪郭は見えてきた」


 ロッソの唇に、氷のように冷たく、しかし確信に満ちた笑みが浮かぶ。


「不揃いな道具、伝わらない情愛、そして刻まれない銘。……この館の時計は、すでに狂った歯車を噛み合わせながら、最悪の刻限へと向かって進んでいる」

感想いただけると狂喜乱舞しますので感想くださいください

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