1:時を刻む館と残された歪み
旅籠を後にした二人が足を向けたのは、工芸都市の中心から少し離れた、重厚な石造りの建築が立ち並ぶ職人街の一角であった。
この街の他の建物が真新しい漆喰や華美な装飾で飾られているのに対し、その館はどこか異質な威容を誇っていた。黒ずんだ石壁は幾重もの年月と煤に耐え抜いてきたことを物語り、高く聳える屋根の頂には、細緻な鉄彫刻の風見鶏が静かに風を捉えている。
ここが、急死した伝説的時計職人マイスター・マティアスが遺した工房館――『針の館』であった。
重厚な鉄補強の施されたオーク材の扉を押し開けると、突如として濃密な「時の奔流」が二人を迎えた。
カチ、カチ、カチ、カチ。
チク、タク、チク、タク。
大小無数の時計が刻む金属音が、空間全体を振動させている。壁一面に掛けられた振り子時計、棚に並べられた細工鐘付きの置時計、剥き出しになった真鍮製の歯車やゼンマイの束。それらすべてが、まるで独自の生命を得た小動物のように、狂いなく規律正しく時を刻んでいた。空気中には、金属を磨くための特殊な油と、乾いた木屑の匂いが重たく満ちている。
「お越しいただき、感謝いたします……ロッソ様、ユキ様」
暗がりの中から姿を現したのは、旅籠で待ち合わせた老番頭バナードであった。彼の目元には深いクマが刻まれ、その背は心労のためにかすかに丸まっている。
「外の騒がしさに反して、中は実に整然としているね。……だが、流れる空気がひどく尖っている」
ロッソはコートの裾を揺らしながら工房の中央へと歩を進めた。その視線の先、吹き抜けになったホールの一番奥に、一基の巨大な柱時計がそびえ立っていた。
全高はおよそ三メートル。深く重厚な色合いを持つ黒檀の木枠に包まれ、文字盤には金銀の細工が惜しみなく施されている。長針と短針は精巧極まる透かし彫りであり、ケースのガラス越しには、太く重厚な振り子が悠然と左右へ揺れているのが見えた。
カハン、カハン、と重低音の刻印を刻むその柱時計は、工房内のすべての小さな時計たちを統率する絶対的な指揮者のごとく、圧倒的な存在感を放っている。
「これが……マティアス親方の最後の作品か」
「はい。マティアス様が息を引き取る数日前まで、この場所で調整を続けられていた遺作にございます」
バナードが痛ましげに声を落とした、その時だった。
「――いい加減にしろ、エリオット!その粗雑な手で柱時計の振り子に触れるなと言っているんだ!」
ホール奥の作業スペースから、刺々しい怒声が響き渡った。
声の主は、青白い顔をした細身の青年だった。神経質そうな薄い唇と、刃物のように鋭い目つき。先代の正統な後継者と目される兄弟子、ジュリアンである。彼は彫刻刀を握りしめたまま、柱時計のケース前に立つもう一人の青年を激しく睨みつけていた。
「粗雑……?兄さん、僕をバカにするのもいいかげんにしてくれ!」
言い返したのは、ジュリアンよりやや体格が良く、作業着の袖を捲り上げた青年――弟弟子エリオットであった。彼の腕や手先には無数の小さな切り傷や油汚れが残っており、彼が泥臭い作業をきめ細かくこなしてきた職人であることを無言で示している。だが、その瞳には深い絶望と、歪んだ不満が渦巻いていた。
「僕にはこの時計を手入れする権利と義務がある!」
「手入れだと?笑わせるな!」
ジュリアンは冷酷な笑みを浮かべ、エリオットを指さした。
「お前はただの雑用係だ。師匠の繊細な設計思想の百分の一も理解できていない不器用な男が、後継者を気取るな。師匠の死の間際、枕元に呼ばれたのは誰だ?この工房の鍵と、設計図の束を託されたのは誰だと思っておるんだ!」
「それは兄さんが師匠をたぶらかしたからだ!師匠は……師匠は最初から僕のことなんて見ていなかった!僕の技術も、僕の捧げてきた時間も、全部ゴミみたいに切り捨てて……!」
エリオットの拳が激しく震え、作業台に置かれた金属工具がガタガタと音を立てた。二人の間に流れる殺気はあまりに濃厚で、言葉の一つひとつが相手の喉元を切り裂かんばかりであった。
「……おやめなさい、お二人とも!お客様がお見えなのですぞ!」
バナードが悲痛な声を上げて二人の間に割って入った。ジュリアンは忌々しそうに舌打ちをして背を向け、エリオットは悔しさに唇を噛み締めながら、荒い息を吐いてロッソたちを睨みつけた。
「フン……探偵だと?バナード、こんな部外者を連れてきて何になる。師匠の遺言もない以上、正統な後継者が僕であることは明白だ」
ジュリアンは冷たく吐き捨てると、工房の奥へと姿を消した。エリオットもまた、何かを耐え忍ぶように拳を握りしめたまま、別の部屋へと去っていく。
残されたのは、不穏な静寂と、カハン、カハンと時を刻み続ける巨大なホールクロックの音だけだった。
「……申し訳ございません、ロッソ様。見ての通り、二人の対立はもはや限界に達しております」
バナードが深く溜息をつき、首を振る。
「ジュリアン様は天性の才能をお持ちですが、プライドが高くエリオット様を見下しておられる。一方のエリオット様は几帳面で努力家ですが、自己評価がひどく低く、『先代から嫌われていた』と思い込んでおられるのです」
「……なるほどね」
ロッソはポケットから真鍮製の懐中時計を取り出した。
パチ。
蓋を開け、文字盤に刻まれた美しく精巧な針の動きを見つめる。
「先代マティアスの親方は、妙な頑固者だった。頑固で、不器用で、そして……完璧主義者だ」
パチ、と再び蓋を閉じる。
「バナード、君は先ほど『マティアスは完成した作品には必ず自身の銘と、受け取る者への言葉を刻む』と言っていたね?」
「はい。マティアス様の流儀にございます。どんなに小さな懐中時計であれ、完成品と認めたものには、外装の目立たぬ場所や裏蓋の内側に、独自のサインと短詩のような刻印を施されました。それが職人としての彼の『責任と証』だったのです」
「そうか」
ロッソは歩み寄り、巨大なホールクロックのガラスケースを見上げた。金細工の文字盤、磨き上げられた黒檀の枠、滑らかに揺れる真鍮の振り子。
「だが、この時計にはどこを探しても銘がない。文字盤にも、ケースの裏にも、木枠の側面にもね。……だから二人は揉めている。銘がない=未完成=後継者への遺言が未定である、とね」
「左様にございます。もし銘があり、そこに『我が後継者に贈る』とさえ刻まれていれば、このような争いは起きなかったのですが……」
ロッソは冷ややかな微笑を浮かべ、懐中時計の蓋を指先で弄んだ。
パチ、パチ、パチ。
「完璧主義者のマティアスが、未完成の時計をホールの中央に鎮座させたまま死ぬと思うかい?一分の狂いもなく動いているこの時計が、本当に『未完成』なのか?」
ロッソの言葉に、バナードはハッと息を呑んだ。
静かな工房館の中で、規則的なギアの回転音だけが、答えを拒むように響き続けていた。
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