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プロローグ:パスタが美味い

 湿り気を帯びた石畳の街路から外れ、木と漆喰で組み上げられた旅籠『時針の停まり木』の扉をくぐると、濃密な油脂と香辛料の香りが漂っていた。


 天井の太い梁からは燻製肉や干し草の束が吊り下げられ、炉裏の火が鈍い赤橙色の光を床に落としている。新興の工芸都市として急速に発展を遂げるこの街では、昼夜を問わず職人や商人が行き交い、重厚な木製のテーブルを挟んで商談と雑談に花を咲かせていた。


 その喧騒から少し離れた壁際の席で、ロッソは深皿に盛られた料理をフォークで巻き上げていた。


 赤く染まった濃度の高いトマトソースが、細い麺に絡みついている。そこへふんだんに刻み込まれた赤唐辛子の破片は、まるで血の結晶のようだ。彼女はフォークを口へと運び、顔色一つ変えずに噛み砕く。強い刺激と唐辛子の熱気が口内に広がるが、ロッソの冷徹な切れ上がった瞳には一切の揺らぎもなかった。


「……美味いね。この街の味付けは、なかなか芯が通っている」


 ロッソは気取りのない、しかしどこか芝居がかった軽妙な口調で呟くと、対面にある皿へと視線を向けた。


 そこに置かれているのは、濃厚な卵黄とチーズのソースで和えられたカルボナーラだった。白く艶やかな麺の表面には、まるで黒い砂のようにたっぷりと挽かれた黒胡椒が振りかけられている。


 それを黙々と口に運んでいるのは、純白の髪と色素の薄い瞳を持った少女、ユキだった。


 ユキは一切の無駄のない所作でフォークを動かし、黒胡椒のまぶされた麺を噛み締める。その表情は可憐でありながら、どこか人間離れした無機質な静けさを湛えていた。この世界において胡椒や珍しい香辛料がどのように交易され、食卓に上っているかなどということには、彼女は何の興味も示さない。ただ命じられた役目を果たすための器のように、淡々と食事を腹に収めていく。


「ふむ……」


 ロッソはポケットから真鍮製の懐中時計を取り出し、親指の腹でその表面を撫でた。

 パチ、と鈍い金属音が響き、蓋が開く。精緻な文字盤の上で、繊細な長針と短針が狂いなく時を刻んでいた。


 パチ、と再び蓋を閉じる。指先で繰り返されるその規則的な不快でない音は、彼女の思考が深く潜り込んでいるときの癖だった。


(この街に漂う過剰な活気……。やはり何かが歪んでいる)


 ロッソの脳裏に、数日前に自身の事務所兼居住地を訪ねてきた一人の老人の姿が蘇る。


 ――それは、冷え込んだ雨の日の午後のことだった。


 重々しいオーク材のドアが叩かれ、部屋に入ってきたのは、使い古された手袋をはめた几帳面そうな老職人であった。仕立ては良いが質素な上着を身に纏い、深々と頭を下げたその老人は、工房の老番頭バナードと名乗った。


『ロッソ様とお呼びしてよろしいでしょうか。唐突な訪問、ひらにご容赦を……』


 バナードの顔には深刻な疲労と、拭い去れない恐怖の影が刻まれていた。差出された温かい紅茶にも手を付けず、彼は震える声で語り始めたのだった。


『我が工房の主であり、この街に数々の名品を遺した伝説的時計職人、マイスター・マティアス様が急死されてより三月……。工房はいま、破滅の淵にございます』


『マティアス、か。あのアナログの極致のような精密技巧を誇った職人だね』


 ロッソは自らの真鍮製懐中時計を示しながら言った。


『私のこの時計も、生前の親方の手によるものだ。狂いひとつ生じない完璧な構造。それで、その完璧な工房で何が起きている?』


『……遺作でございます』


 バナードは苦渋に満ちた表情で語を継いだ。


『マティアス様が息を引き取る直前まで打ち込んでおられた、大型の柱時計。完璧に動作し、息をのむほど美しい仕上がりでありながら……そこにはマティアス様の「銘」が刻まれておりませんでした』


『銘がない?あの頑固な職人が?』


『ええ。マティアス様は、完成した作品には必ずご自身のサインと、受け取る者への言葉を刻むことを徹底しておられた。それがないということは、二人の弟子――兄弟子のジュリアンと弟子エリオットの双方にとって、納得のいかない事態なのです』


 バナードによれば、先代の遺産と工房の後継者の座、そしてその遺作の所有権を巡り、二人の弟子の対立は日増しに激化しているという。

 天才的なひらめきを持ち、先代の真の後継者と目される兄弟子ジュリアン。

 不器用だが几帳面で、情熱を傾けながらも先代から正当に評価されていないと思い詰めている弟弟子エリオット。


『ジュリアンは「自分が受け継ぐべきだ」と譲らず、エリオットは「自分は先代に嫌われ、見捨てられた。この時計すら兄さんだけに与えられるのだ」と不信感と憎悪を募らせております……。二人の視線はもはや職人のそれではありません。互いを刺し殺しかねない、冷たい刃そのものです』


 老番頭は頭を床に擦り付けんばかりにして訴えたのだった。


『惨劇が起きる前に……どうか、どうか工房へお越しいただき、先代の真意を解き明かしてください。このままでは、職人の魂が血で汚れてしまいます!』


 ――回想から戻ったロッソは、最後のパスタをフォークですくい上げ、口に運んだ。


 不純物。

 歪んだ誤解が生み出す、無駄な死。

 それこそがロッソの最も忌み嫌う「不純」であった。人が人を殺すのには理由がある。だが、その理由が事実の誤認に基づいた悲劇であるならば、それは論理的に解体されねばならない。


「ごちそうさま。相変わらず見事な食べっぷりだね、ユキ」


 きれいに空になった皿を前に、ユキは小さく頷いた。口元を白い布で拭う動作には一切の無駄がない。


「……行くの?」


「ああ。時間が刻まれている以上、私たちはその刻限に遅れるわけにはいかない」


 ロッソは銀貨をテーブルに置くと、立ち上がって朱のコートを羽織った。懐中時計をポケットに収め、その蓋を「パチ」と一回、鳴らす。


「行こうか。マティアスが遺した、歪んだ時計のネジを巻き直しに」


 二人は旅籠の重い扉を押し開け、重厚な時計の鐘の音が遠く鳴り響く、工芸都市の深部へと足を踏み出した。

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