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8:解体される動機

 嵐の密室となった『針の館』。

 中央ホールを揺らす落雷の衝撃とともに、ユキが残した掠れた一言――『振り子の裏を見ろ』。


 ホールの長椅子に横たわるユキの白磁の肌には、未だに刺すような高熱と浅い呼吸が残されていた。その指先が痛みに耐えるようにかすかに痙攣しているのを、ロッソは氷のように冷ややかな、しかしどこか研ぎ澄まされた瞳で見つめていた。


「バナード。ユキの側に付き添って冷やしタオルを用意してくれ。彼女は少し……『深いもの』に触れて消耗している」


「は、はい!ロッソ様……かしこまりました!」


 老番頭バナードが怯えと不審を隠せない様子で駆け寄り、濡れた手拭いでユキの額を優しく拭い始める。ユキは苦しげに不揃いな息を吐きながらも、その色素の薄い瞳を虚空へ向け、ロッソの背中を無言で見つめ続けていた。


 ロッソはゆっくりと振り返り、朱のコートを揺らしながらホールの中央へと足を踏み出した。


 そこでは、二楼へ上ろうとする兄弟子ジュリアンと、一楼の暗がりで作業場のドアノブに手をかけ、拳を震わせている弟弟子エリオットの姿があった。


「フン……気味の悪い女だ」


 ジュリアンは階段の手すりに手をかけ、見下すような嘲笑を浮かべた。


「おい、エリオット。無駄な抵抗はやめて明朝の法官の到着を待つんだな。お前のような不器用な雑用係に、師匠が遺したホールクロックの触れ幅ひとつも渡すつもりはない。お前はただ、師匠から見捨てられた落第生なんだからな」


 作業場の扉の前で、エリオットの背中が激しく脈打った。

 彼の右手がエプロンのポケットの奥へと伸び、そこに忍ばせた「ある硬い重厚な金属の触感」を確かめるように固く握りしめられる。絶望と憎悪、そして自暴自棄の漆黒の刃が、彼の胸中で形を成そうとしていた。


 ジュリアンを殺し、自らも破滅する――その殺意の引き金が引かれる、まさにコンマ数秒前の瞬間であった。


 パチンッ!


 静まり返ったホールに、乾いた鋭い金属音が鳴り響いた。

 ロッソが親指で弾いた、真鍮製懐中時計の蓋の音であった。


「待ちなよ、二人とも」


 ロッソの冷酷な声が、階段を上ろうとしていたジュリアンの足を止め、ポケットの中で手袋を固く握りしめていたエリオットの動きを縛り付けた。


「探偵さん……僕に何の用だ。慰めならお断りだと言ったはずだ」


 エリオットが暗い殺気を宿した目で振り向く。だが、ロッソはその殺気など意にも留めず、ポケットに手を突っ込んだまま、中央に鎮座する三メートルの巨大なホールクロックへと歩み寄った。


「バナード。今一度確認させてくれ」


 ロッソは柱時計の黒檀の枠に細い指先で触れながら、静かに問いかけた。


「先代マティアスの親方は、職人としてどんな流儀を持っていた?」


「え……?ええ、先ほども申し上げました通り、マティアス様はご自身が納得された完成品には、必ず独自の銘と、受け取る者への言葉を刻むお方でした。それは職人としての責任であり、誇りで……」


「そうだ」


 ロッソは柱時計のガラスケースを指さした。


「このホールクロックは一分の狂いもなく時を刻んでいる。マティアスという完璧主義者にとって、これは紛れもない『完成品』だ。……だというのに、目につく文字盤にも、ケースの外枠にも、どこにも銘がない。……おかしいと思わないかい?」


「だ、だから!師匠は最後、銘を刻む時間すら与えられずに死んだんだと言っているだろう!」


 エリオットが血吐くような怒号を上げた。


「師匠は僕を見捨てたんだ!ジュリアンだけに愛を注ぎ、僕の十年間をゴミみたいに切り捨てたんだよ!」


「バカバカしい」


 ロッソの冷徹な一言が、エリオットの叫びを真っ二つに切り裂いた。


「見捨てられた?愛されなかった?……エリオット、お前は己の不器用さと劣等感ゆえに、完璧な『事実誤認』に陥っている」


「なんだと……!?」


「マティアスの親方は銘を伏せなかったのではない。……お前にしか見えない場所に、最初から刻んでいたんだ」


 ホール全体が、凍りついたような静寂に包まれた。

 ジュリアンが不快そうに眉をひそめ、バナードが息を呑む。


「……何のことだ、探偵。デタラメを言うな!」


「デタラメかどうか、私の論理を聞くといい」


 ロッソは自身の真鍮製懐中時計を取り出し、その裏蓋を指先で弾いた。パチンと音を立てて開いた裏蓋のさらに内側、精巧なギミックの隙間に刻まれた、毛髪ほどに細いマティアスのサインを示しながら語り始める。


「マティアスという男は、気取った鑑賞者や見せびらかしたい所有者のために銘を刻む男ではない。彼が言葉を遺すのはいつだって――『その時計を日常的に手入れし、手垢と油に塗れながら愛でる者』の動線上だ」


 ロッソの瞳が、暗く澄んだ光を放つ。


「この巨大なホールクロックにおいて、日常的に手入れを必要とする最も繊細な心臓部はどこだ?黒檀の外枠か?透かし彫りの文字盤か?……違う。コンマ数グラムの誤差が精度の狂いを生む、内部の『振り子』だ」


 エリオットの身体が、弾かれたようにガタガタと震え始めた。


「そして……先代マティアスから、その振り子の重量バランスを毎日毎日、泥臭く微調整し続ける作業を一任されていたのは、一体誰だ?」


「っ…………あ……!」


「答えるまでもない。不器用だが几帳面で、誰よりも真面目に真鍮を磨き続けたお前だ、エリオット」


 ロッソの言葉が、ホールクロックの鐘の音のように重く響き渡る。


「ジュリアンには華やかな外観の手仕事を与えた。だが、時計の命である精度と心臓部を託されたのは、お前だったんだ。マティアスはお前が日常の手入れで必ず触れ、裏返す場所――『振り子の裏側』に、最初から銘とお前への感謝の言葉を刻み込んでいたんだよ!

 マティアスの親方は、工房の表看板となる文字盤の美しさをジュリアンに託し、時計の命である精度の心臓部――振り子をエリオット、君に託したのだ!表の華やかさと、裏の精度。どちらが欠けてもこのホールクロックは完成し得ない。親方は二人の弟子を対等に愛し、それぞれの領域に命を吹き込ませていたのだよ!」


「なっ……!?」


 ジュリアンが階段の上で顔色を変えた。

 エリオットはポケットの中で握りしめていた刃具から力を失い、その場に崩れ落ちそうになりながら、血走った目で中央の柱時計を見つめた。


「嘘だ……嘘だ……!そんな……そんなことが……!」


「嘘かどうか、お前のその手で確かめたらどうだ?」


 ロッソは冷たい微笑を浮かべ、柱時計のガラスケースを静かに押し開けた。


 凶器が引き抜かれる前。殺意が形になる前。

 探偵の冴え渡る論理によって、男を支配していた暗い屈託は、すでにその根底から砕け散っていた。

感想いただけると狂喜乱舞しますので感想くださいください

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