9:因果の収束と救済の証人
カラン、コロン……と、銀の短剣が石造りの床で鈍い音を立てて転がった。
自死という美しくない解を求めていたカルロの胸中から、歪んだ責任感が完全に削ぎ落とされた瞬間だった。彼を破滅へ導いていた「事実誤認」が叩き壊され、正しき因果の奔流が選択されたことで、歴史の絶対的な分岐が確定する。
その直後――世界が、不気味に沈黙した。
視界が水面に投げ込まれた油のように乱反射を起こす。物理的な音ではない。時空の構造そのものが軋みを上げ、書き換えられた現実と、打ち捨てられた惨劇の現実が激突する音だ。
「――くっ!?」
ロッソはスラックスのポケットの中で真鍮の懐中時計を固く握りしめ、襲い来る猛烈な眩暈に耐えるべく奥歯を噛み締めた。
脳裏に、激しい津波となって「第一時間軸の記憶」が流れ込んでくる。
自分が間に合わず、この執務室で胸を刺し穿って血の海に倒れたカルロの冷たい死に顔。
首筋から脈拍が消え去っていた絶望的な体温。
そして、己の無力さに苛まれながら、過去の自分へ『「ない」ものを見付けろ』という一言を託した、あの凄惨な記憶の濁流。
一度は確定したはずの「血と絶望の過去」が、たった今手繰り寄せた「救われた現在」と重なり合い、鮮明な二重写しとなって脳細胞を焼き焦がしていく。
「あ……あああ……っ!?」
悲痛な叫びを上げたのは、床に膝をついていた老侍従オットーだった。
彼は己の頭を両手で激しく抱え込み、血の引きつった顔で床を叩いた。
「当主様が……私の目の前で、胸を突いて……っ! 血が、血が床一面に溢れて……! だが、なぜだ!? カルロ様は……カルロ様は今、目の前で生きておられる……! 私は、私は一体、何を見たのだ……!?」
オットーは混濁する記憶の狭間で過呼吸を起こしながら、ボロボロと大粒の涙をこぼした。
彼こそは、この時間改変における唯一の「証人」。
救われた当主カルロ自身は「自分が破滅の狂気に囚われ、寸前で思い止まった」という意識しか持たない。主人が目の前で息絶えたという絶望の記憶と、それが目の前で書き換わった奇跡――その両方の記憶を抱え、生涯その救済の重みを記憶し続けるのは、この老侍従一人なのだ。
「……オットー、顔を上げたまえ」
ロッソは深く、冷たい息を吐き出し、乱れた息を整えた。
「君が見た惨劇は、君が私を呼んだからこそ回避し得た『存在しない未来』の残像だ。恐怖に震える必要はない。君の忠義と決断が、この男の命を繋ぎ止めたのだからな」
「ロッソ様……っ、ああ、ロッソ様……!」
オットーは床に額を擦り付け、安堵と感謝の嗚咽を漏らした。
執務机に突っ伏していたカルロは、震える手で机の上の『他領との合併による再建計画書』を拾い上げた。彼の瞳から不気味な凪は消え去り、領主として泥を啜ってでも生き抜くという、力強い知性の光が宿っていた。
「……すまなかった、ロッソ。そして、感謝する。私は己の愚かさゆえに、敵の仕掛けた罠を正解だと信じ込んでいた。……私は生きるよ。この計画書を手に、領民とともにやり直してみせる」
「当然だ。君が再び美しくない計算式を組み立てようとした時は、いつでも私が端から叩き潰しに来てやる」
ロッソは短く言い捨てると、腰の懐中時計をパチンと音を立てて閉じた。
因果の収束は完了し、一つの命が確かに救われたのだ。
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