8:論理的解決の実行
カチリ、と真鍮の懐中時計が規則正しく時を刻む音が、鍵の閉ざされた執務室を静かに支配していく。
短剣を己の胸元に突き立てたまま屹立するカルロ。床に膝をつき、呼吸すら忘れたように息を詰める老侍従オットー。そして、部屋の扉を背にして佇み、氷の瞳で静かに事態を『観測』する少女ユキ。
ロッソはゆっくりと歩みを進め、カルロが立つ執務机の正面へと立った。
「ロッソ……頼む、退いてくれ」
カルロのひび割れた声が響く。指先に血が滲むほど固く握られた短剣の刃先は、あと一寸深く押し込めば、彼の命を容易く断ち切るだろう。
「私は狂ってなどいない。計算したのだ。先代からの巨額の負債、度重なる不作、隣領の圧力……すべてを計算した結果、当主である私の命を抹消し、特約を履行させることだけが、この領地を救う唯一の『最適解』なのだよ!」
「……最適解、だと?」
ロッソの薄い唇から、低く、刃のように冷ややかに研ぎ澄まされた嘲笑が漏れた。
「笑わせるな、カルロ。君のその完璧に見える数式……最初から変数そのものが偽造されていたとしたらどうだ?」
「なに……?」
カルロの眉が不快そうに跳ね上がる。
ロッソはスラックスのポケットから黒革の手袋を嵌めた手で、先ほど資料室の隠し仕掛けから引っ張り出してきた羊皮紙の協定書――『他領との合併による再建計画書』を取り出すと、それをカルロの目の前、執務机の上にドスンと叩きつけた。
「君の手元にある帳簿、過酷な返済条件、そして『当主の死による負債免除の特約』……それらはすべて、君を『自死』という選択肢へ誘導するために、債権者が仕組んだ精巧な罠だ」
「な、何を言っている……! そんな書類、私は見たことも――」
「当たり前だ。君に見つかっては困るからこそ、奴らはこれを意図的に抜き取り、資料室の奥へ隠蔽したのだからな!」
ロッソは協定書を指先で強く叩き、冷酷な声でデバッグのロジックを叩きつけていく。
「読め、カルロ! 君が信じ切っていた『当主の死による負債消滅特約』……そんな都合の良い契約を、利権を狙う債権者が愚直に履行すると思うか!? そもそも死者にすべての責任を被せて踏み倒せるような特約など、法的に成立し得ない精巧な偽造文書だ。奴らは君を自死させて領主不在(無血開城)を作り出し、負債を盾に領地全域を合法的に没収するための『誘い水』として仕掛けたのだよ!」
カルロの瞳が、見開かれた。短剣を握る手が、微かに震え始める。
「敵の真の狙いは何だ? 君を自死に追い込むことだ。君が勝手に死んでくれれば、領主を失ったこの広大な領地は無血開城され、奴らは負債を口実に合法的にすべてを乗っ取ることができる! 君が信じ切っていた『自分が死ねば領民が救われる』という美徳は、敵の欲望を満たすための絶好の道化に過ぎなかったのだよ!」
「そんな……そんなはずは……! 私は、私は領民のために……!」
「君は手元にある『嘘の数字』だけを愚直に計算し、思考停止に陥っていたのだ! 『あるはずの選択肢』が存在しないという不自然さにすら気づかずにな!」
ロッソは一歩踏み出し、懐中時計の蓋をパチンと激しい音を立てて叩き閉めた。
「原因は完全に解体された。君が命を捨てる理由は、いまこの瞬間に一枚の紙屑へと成り下がったのだ! ……さあ、どうするカルロ。それでもまだ、敵の思い通りに自分の胸を刺し穿つか!?」
探偵の凛とした叫びが、閉ざされた密室に炸裂する。
カルロの指から、スーッと力が抜けていった。
カラン、コロン……。
銀色の短剣が手から滑り落ち、石造りの床で甲高い音を立てて転がった。
カルロは両手で顔を覆い、そのまま膝から崩れ落ちるように執務机に突っ伏した。彼の背中が、激しい押し殺した涙によって大きく揺れていた。
自死という美しくない計算式が、完全に破砕された瞬間だった。
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