7:死の数式と執務室の檻
石造りの廊下に、ロッソの乗馬ブーツが鳴らす激しい足音が響き渡っていた。
胸ポケットに押し込んだ羊皮紙の協定書が、走る運動に合わせて小さく擦れる。懐中時計の歯車が刻むチクタクという鼓動が、まるで旧友の余命を削るカウントダウンのように脳裏で跳ねていた。
(間に合え……! あの愚か者が、己の脈動を断ち切る前に!)
西棟から執務室へと至る曲がり角を曲がった瞬間、ロッソの視界に人影が飛び込んできた。老侍従オットーだ。彼は悲痛な面持ちで執務室の重厚な樫の扉に手をかけ、まさに中へ踏み込もうとしていた。
「オットー!」
「ひっ……ロ、ロッソ様!?」
ロッソの鋭い呼び声に、老人は肩を跳ねさせて振り向いた。その顔は蒼白で、目には耐えかねた涙が浮かんでいる。
「カルロ様が……執務室の内側から鍵を掛けようとされて……! 『最後の顔を見ないでくれ』と……っ! 私には、私にはもう止められません!」
「どけ!」
ロッソはオットーの肩を掴んで力ずくで脇へ退けると、閉まりかけていた扉の隙間へ強靭な革靴の先を叩き込んだ。
ギィ、と不快な金属音が響き、扉が途中で押し戻される。
「ロッソ……!? よせ、邪魔をするなと言ったはずだ!」
部屋の奥から、絶望に満ちたカルロの叫びが響いた。
ロッソは扉を力任せに押し開き、執務室へと足を踏み入れた。続いて、すがるような瞳のオットーが部屋の中へと滑り込む。
執務机の奥、カルロは立ち上がっていた。その右手には、銀色に光る一振りの豪奢な短剣が握られ、鋭利な刃先はまっすぐと自らの胸元――心臓の位置へと向けられている。
「出て行け! これは私の問題だ! この命を消去することでしか、領民も、一族の誇りも救われないのだ!」
カルロの瞳には、狂気にも似た悲壮な決意が宿っていた。指先に力がこもり、刃が衣服の生地を押し込む。
「当主様ーっ!」
オットーが床に膝をつき、血を吐くような悲鳴を上げたその時だった。
パタン。
背後で、静かだが決定的な音が弾けた。引き戸のように重い執務室の扉が、内側からゆっくりと閉ざされたのだ。続いて、カチリ、と硬質な小音が響く。ロッソが振り向くと、そこには白銀の髪を揺らした少女――ユキが立っていた。彼女は扉の内側の鍵穴から真鍮の鍵を引き抜き、何事もなかったかのようにそれをポケットに収めると、壁際にそっと身を寄せた。外部からの干渉を完全に遮断した、逃げ場のない「密室」。
「な、なにを……あの少女は、何をしているのだ!?」
オットーが動揺して叫ぶが、ユキは氷のような瞳でただ室内を『観測』しているだけだ。
ロッソの薄い唇が、冷ややかに歪んだ。
(ふん……これで舞台装置は整った、というわけか)
ロッソはスラックスのポケットから真鍮の懐中時計を取り出し、パチンと音を立てて蓋を開いた。規則正しく時を刻む小さな機械音が、密室となった執務室の静寂を静かに支配していく。
「カルロ。君のその不美しい『死の数式』……いまここで、この私が完璧に消極してやる」
探偵の鋭利な瞳が、短剣を握りしめる旧友の胸元を射抜いた。
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