6:不在の証明
不自然な『余白』は、時に流された血よりも雄弁に真相を語る。
資料室の湿った静寂の中、ロッソは手袋をはめた指先で、書棚の背板を次々と叩いていた。コン、コン、と乾いた木槌のような音が空洞の深さを確かめるように響く。
(……どこだ。あの男が足掻き、そして外部の何者かによって抹消された痕跡は)
思考の角度を水平から垂直へと反転させる。あるはずの書類がない。ならば、それは捨てられたのではない。隠されたのだ。カルロ本人にすら見つからぬよう、あるいは「探す気力すら奪うため」に、この館のどこかへ。
ロッソの鋭利な視線が、部屋の最奥に置かれた重厚な黒檀の台帳棚へと固定された。先ほど少女ユキが静かに身を引いた場所。そして、彼女が抱えていた古い台帳が収められていた位置だ。
ロッソは棚に近づき、段の奥行きを眼球で計測する。
(外寸に対して、棚板の奥行きが三寸ばかり足りない……)
実に古典的で、だからこそ盲点になりやすい二重底のカラクリ。ロッソは躊躇うことなく、最下段の羊皮紙束を引き抜いた。棚の奥板に指を掛け、側面の微小な浮きを見つけると、胸ポケットから真鍮の細いピンを取り出し、隙間へ押し込む。
カチリ、と硬質な小音が弾けた。
からくり扉がわずかに押し出される。その狭い隙間から覗いたのは、手垢で汚れた羊皮紙ではなく、上質な羊毛紙に美しい墨筆で記された複数枚の協定文書だった。
ロッソはその書類を引っ張り出し、卓上のランプの灯火にかざした。目を通すにつれ、彼女の薄い唇に冷徹で不敵な笑みが刻まれていく。
「……なるほど。これが君の存在そのものを否定していた『まやかし』の正体か、カルロ」
そこに記されていたのは、隣領の健全な中立貴族との間で交わされるはずだった『両領地の対等合併および事業再建計画書』の草案、そしてその合意の証印だった。
返済不能な負債に苦しむこの領地を、他領の豊富な資金力と交易路を用いて再建する完璧な道筋。そこにはカルロの自死などという美しくない変数は一文字も存在しない。むしろ、カルロが領主として存続することこそが、この合併の絶対条件として明記されていた。
「完璧な罠だな」
ロッソは懐中時計を取り出し、パチンと蓋を開いた。
カルロに金を貸し付けた債権者――悪意ある第三者は、カルロを精神的に追い詰め、「自分が死ねば負債が消える」という偽りの特約を信じ込ませた。そして、この正当な再建計画書を隠蔽することで、彼の視界から『生き残るための計算式』を完全に抹消したのだ。
「誰が」「どうやって」隠したかはこの際問題ではなかった。おおかた「商会」に唆された下働きの誰かの仕業だろう。燃やしたり持ち去ったりせずこの部屋の中に隠したというのは、一抹の忠義心の表れだろうか。だがそんなことはどうでもいい。ロッソにとって今「ここにある」計画書こそが厳然たる事実であった。
カルロが自死を選べば、領主を失った領地は無血開城され、債権者――商会がその広大な土地と資源を合法的にむさぼり尽くすことになる。
「己の命を消去することで他者を救う、だと?……ふざけた悪手だ。お前は救世主気取りのまま、敵の都合の良い駒として殺されるところだったのだよ」
動機を解体するための決定的な手札は、いま探偵の手の中に揃った。
ロッソは書類を胸元に収めると、黒革の手袋を固く嵌め直した。
「行くぞ、ユキ。愚かな旧友の狂った計算式を、端からへし折ってやる」
振り返ったロッソの視線の先、壁際に佇む白銀の少女は、ただ無言で小さく首を傾げていた。
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