10:救済の朝と共犯者の契約
石造りの館を打つ暴風雨の音が、潮が引くように小さくなっていく。
分厚い鉛色の雲が裂け、水鏡館のアーチ窓から差し込んできたのは、湿原の解けかけた雪原を静かに照らす、眩しいほどに澄んだ初夏の朝の光だった。
執務室の床には、かつてカルロが己の胸を刺し穿つはずだった銀の短剣が転がっている。
膝から崩れ落ち、自らの命を繋ぎ止められた事実を前に打ち震えていたカルロは、やがて震える手で机の上の『他領との合併による再建計画書』を拾い上げた。
その瞳から、自死という狂気に囚われていた不気味な凪は消え去っていた。代わりに宿っていたのは、他者の裏切りに怒り、領主として泥を啜ってでも生き抜くという、力強い知性の輝きだった。
「……すまなかった、ロッソ。そして、感謝する」
カルロは掠れた声で、しかしはっきりと旧友へ視線を向けた。
「私は己の狭窄した思考ゆえに、敵の仕掛けた悪意の罠を、唯一の解だと信じ込んでいた。……私は生きるよ。この計画書を手に、領民とともに我が領地を建て直してみせる」
「当然だ。君が再び美しくない計算式を組み立てようとした時は、いつでも私が端から叩き潰しに来てやる」
ロッソは短く言い捨てると、黒革の手袋を嵌め直し、つばの広い帽子を深めにかぶり直した。
傍らでは、一度は主人の凄惨な死を目撃し、それが目の前で書き換わる奇跡に立ち会った老侍従オットーが、涙を拭いながら深々と頭を下げていた。
「ロッソ様……言葉もございません。当主様を、我が家をお救いいただき、本当に……本当にありがとうございました」
「礼なら君自身の忠義に言うがいい、オットー。君が私をこの館へ呼び寄せなければ、解は導き出せなかった」
ロッソは振り返ることなく執務室の扉を押し開き、静かな足取りで部屋を後にした。
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水門へと続く石畳の回廊は、朝の光を受けて薄青く輝いていた。
湖面に揺れる光の反射が石壁を滑り、湿原から吹き抜ける冷たい風がロッソの黒い外套を軽やかに揺らす。
水門に横付けされた小舟へ乗り込もうと乗馬ブーツの先を揃えた瞬間、背後から不意に小さな足音が近づいてきた。
無機質で、驚くほど気配のない足音。
ロッソが振り返ると、そこには館の雑用係である不仕付けな灰色の服を着た少女――ユキが立っていた。
透き通るような白銀の髪、色素の薄い淡い瞳。
歴史が書き換わった瞬間、ロッソやオットーとともに「第一時間軸の記憶」を脳裏に共有したはずの彼女だったが、その表情には揺らぎ一つ浮かんではいなかった。ただ氷のように静かに、探偵の姿を見つめている。
「……ついてくるのか、ユキ」
ロッソが静かに問うと、少女は感情の起伏がない声で、ぽつりと短く返した。
「あなたの行く場所に、次の『破綻』があるから」
ロッソの薄い唇が、微かに、そして不敵に歪んだ。
スラックスのポケットから真鍮の懐中時計を取り出し、パチンと硬質な音を立てて蓋を閉じる。
「いいだろう。世界には、まだ解体されるべき歪んだ数式が山ほど転がっている。……私の計算の『不純物』を削ぎ落とす手伝いだ。来るがいい、ユキ」
小舟がゆっくりと水門を離れ、灰色の湖面へと押し出されていく。
男装の麗人たる赤の探偵と、時空の狭間に佇む白の少女。
過去を書き換え、未然の未来を手繰り寄せる「共犯者」たちの長き旅路が、いま静かに始まりを告げたのだった。
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