4:後悔と託された一言
呼吸を忘れたかのような静寂が、血の匂いの充満する執務室を包み込んでいた。
石造りの床に広がった深紅の溜まりの中心で、カルロ・ディ・ランベルティは完全に物言わぬ肉塊と化していた。その瞳は開かれたまま、外界の光を二度と映すことなく濁っている。
「当主様……当主様ぁっ……!」
オットーが血塗られた手でカルロの体を抱きかかえ、絞り出すような泣き声を響かせている。老侍従の膝は血で染まり、絶望と恐怖に歪んだ顔は、目前で主人の生命が途絶えたという絶対の現実を突きつけていた。
ロッソは立ったまま、ただその光景をただ見つめていた。
膝を折り、手を差し伸べることすら忘れたかのように、彼女の体は硬直していた。スラックスのポケットの中で握りしめられた手袋が、軋む音を立てる。
(……負けた、というのか。この私が?)
脳内を疾走するのは、冷ややかな自己嫌悪と、激しい苛立ちの渦だった。
カルロの死は、あまりにも完璧だった。彼自身が選び取った「自死」であり、他者の物理的な介入は一切存在しない。オットーという揺るぎない「証人」の目の前で、男は己の胸を短剣で穿ち、命を断った。
原因は明白だ。領地の負債、押し潰されそうな重圧、そして己の命を消去することで全てを相殺するという自己犠牲の数式。
だが――何かがおかしい。
ロッソの知性が、敗北のショックの底から鋭い警鐘を鳴らし続けていた。
(あの男の計算は間違っていた。……いや、計算そのものではなく、『与えられたデータ』が狂っていたのだ。手元にある帳簿、過酷な返済条件、死による債務免除の特約……カルロは『自分が見せられた数字』だけを愚直に計算し、自死こそが唯一の解だと誤認させられていた)
完璧に見えた方程式の裏に潜む、巧妙な欠落。
仕組んだ人物は、カルロに生存の道を模索させないよう、あらゆる可能性の芽を摘み取っていた。手元に『ある』資料だけを見れば、誰であっても自死以外の選択肢に行き着かないように。
ロッソは歯を食いしばり、血塗られた床を佇んで見つめた。
(答えは、手元の数字の中にはなかったのだ。探すべきは『そこにある正解』ではない。……私としたことが、なぜもっと早く気づかなかった!?)
しかし、気づいた時にはもう遅すぎた。
命の灯火は潰え、流れた血は二度と戻らない。一度確定してしまった過去の現実は、どのような天才の頭脳をもってしても書き換えることはできない。
(クソっ……! あと一歩……あと一歩、別の視点を持てていれば! 過去の私に……過去の私に『それ』を伝えることさえできれば、この無意味な死を未然に防ぎ、この歪んだ計算式を端から叩き潰すことができたというのに……!)
途方もない後悔と悔恨が、冷徹な探偵の胸を焦がしていた、その時だった。
「――何を、伝えたいの」
不意に、耳元で小さく透明な声が響いた。
ロッソはハッと息を飲み、視線を横へ滑らせた。
いつの間に近寄っていたのか。扉の脇に立っていたはずの少女――ユキが、すぐ傍らに佇んでいた。
血の海と化し、老侍従が哭泣する惨惨たる室内にあって、彼女だけが世界の位相から外れたように静けさを纏っている。氷のような淡い色の瞳が、まっすぐにロッソの顔を見つめていた。年相応の怯えも、死への不快感すら存在しない。
「ユキ……君は……」
「過去のあなたに」
ユキの薄い唇が、淡々と音を紡ぐ。それは会話というよりも、世界の理そのものが発する不気味な宣告のようだった。
「惨劇が起きる前、まだ手遅れになる前のあなたへ……ひとことだけ、言葉を届けることができるなら。何を、伝えたいの?」
普通であれば、気狂いの寝言と一蹴しただろう。時間遡行などという荒唐無稽な現象を、冷徹な論理主義者たるロッソが信じる道理はない。
しかし――ユキの瞳に宿る圧倒的な無機質さと、その身体から立ち登る異質な『気配』が、ロッソの理性を力づくで捻じ伏せた。
この少女は、冗談を言っているのではない。
ただそこにある事実として、過去の時空へと繋がる『扉』そのものとして、ここに立っているのだと。
(……一言だけ、だと?)
ロッソの脳内計算回路が、絶望の淵から超高速で再起動する。
長い説明も、詳細な状況の解説も送ることはできない。「帳簿の裏を探せ」といった直接的な答えを渡したところで、過去の自分がその意味を正しく解釈し、限られた時間の中で行動を起こせる保障はない。
過去の私に必要なのは、答えそのものではない。
手元にある完璧な嘘に惑わされず、思考の死角を突くための『視点の転換』だ。
「……ユキ」
ロッソは深く、冷たい息を吸い込んだ。スラックスの懐中時計を固く握りしめ、過去の自分へ、そして時空の壁を越える少女へ向けて、極限まで圧縮した意志を吐き出した。
「過去の私に、こう伝えろ」
血の匂いと悲鳴が満ちる部屋の中で、探偵の薄い唇から、短く冷酷な暗号が放たれた。
「――『ない』ものを見付けろ、と」
ユキはその言葉を耳にすると、ただ静かに、一度だけ身動ぎもせず頷いた。
「……受け取った」
次の瞬間。
世界からすべての音が消え去った。
泣き叫ぶオットーの声も、叩きつける暴風雨の音も、血の臭気すらも。
外界の風景が、まるで水面に落としたインクのように歪み、急速に反転し、白い光の渦の中へと呑み込まれていく――。
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