3:自死の発生
執務室を辞したロッソは、重厚なオーク材の扉が閉まる不快な残響を背に受けながら、薄暗い回廊に歩を進めていた。
幾人かの使用人とすれ違ったが、皆一様に陰鬱な顔をしていた。
頭のなかでは、先ほどカルロが吐き捨てた言葉と、彼が机上に提示した数字の山が目まぐるしく回転している。
(……破綻している。だが、論理の破綻ではなく、彼の認識そのものが)
カルロの切迫感は本物だった。あれは狂気や演劇の類いではない。本気で自分という存在を方程式から消去することこそが、残された領民や一族を救う唯一の『解』だと信じ込んでいる。
だが、ロッソの冷徹な直観は、その計算式の根底に潜む歪みを捉えていた。
完璧すぎる計算は、時に作為の産物だ。外部から与えられた情報と前提条件があまりに不自然に整備されすぎている。まるで、彼に『自死以外の選択肢が存在しない』と思い込ませるために誂えられた檻のように。
(確認すべきは、過去の取引記録と、ここ数ヶ月の通信の記録だ。あの男が自暴自棄になって捨て置いた資料のなかに、見落とされた変数があるはずだ)
ロッソは館の西棟に位置する資料室へと向かった。湿原特有の湿気を含んだ空気が、古い羊皮紙と革の匂いを運んでくる。
重い扉を押し開けると、そこは天井まで届く本棚が立ち並ぶ、静寂の底のような空間だった。外界の光は高い位置にある細長い狭間窓から射し込む僅かな薄明のみで、空気中に漂う塵が光の筋のなかで揺らめいている。
その光の輪のなかに、ひとつの影があった。
「――誰だ」
ロッソの問いかけに、その影は静かに振り返った。
そこにいたのは、小柄な少女だった。
館の雑用係が着るような不仕付けな灰色の服を身に纏っている。しかし、その佇まいは屋敷の使役人という言葉からは程遠かった。
透き通るような白い肌。色素の薄い淡い髪。そして何より、ロッソの視線を釘付けにしたのはその瞳だった。凍てついた湖面を思わせる無機質で深い色彩。そこには年相応の怯えも、異質者に対する好奇も一切存在しなかった。ただそこにあるのは、圧倒的な『無』――あるいは、すべてをただ観測しているだけのような超然とした静けさ。
少女の腕には、整然と揃えられた分厚い古い台帳が抱えられていた。
「……オットーに頼まれた雑用か?」
ロッソの問いに対し、少女は口を開かない。ただ、小さく首を縦に振るでも横に振るでもなく、淡々とした視線をロッソに向け続けている。
「名は何という」
「……ユキ」
鈴を転がすような、しかし感情の起伏を綺麗に削ぎ落とした短い声が返ってきた。
ロッソはわずかに眉をひそめた。この館の重苦しい悲壮感や、カルロの放つ死の気配の中で、この少女だけがあまりにも浮世離れしている。まるで、この場所に存在しながら、異なる位相から世界を眺めているかのような違和感。
「そうか。ユキ、そこの棚の古い帳簿を調べたい。そこを退いてくれ」
ユキと呼ばれた少女は言葉を発することなく、すっと静かに身を引いた。その足音すら、驚くほど気配がない。彼女は抱えていた台帳を近くの作業机に静かに置くと、そのまま壁際に佇み、ロッソの挙動をじっと見つめ始めた。
ロッソは少女への意識を切り捨て、棚に並ぶ古い羊皮紙の束と帳簿へ手を伸ばした。
指先を滑らせ、ここ数年の収支、債務の契約書、他領との書簡の控えを高速で精査していく。彼女の脳内演算能力が、紙面に踊る数値を次々と情報へと変換し、立体的な構造を作り上げていく。
(……妙だ)
ロッソの手が止まった。
カルロの手元にある負債の計算書。そして、この資料室に残された過去の取引履歴。
二つを照らし合わせた時、不自然な『密室』が浮かび上がってきた。
(数字が合いすぎている。利子の計算、返済期限の短縮、すべてが過酷なまでにカルロへ不利に働いている。だが……なぜだ? これほどの巨額の融資を実行するにあたり、相手側の商会たち債権者が『何の担保もなしに』貸し付けるはずがない。カルロが死んで負債が消滅する特約――そんな都合のいいものが存在するならば、債権者側が得る本当の利益はどこにある?)
手元に『ある』書類を読む限り、カルロの言う通り自死しか道はないように思える。
しかし、本格的な領地経営において、生き残りのための『模索の形跡』が完全に欠落しているのはおかしい。他領への打診、事業の再編、あるいは合併の交渉……追い詰められた人間が足掻いた痕跡が、文字通り綺麗に消え去っているのだ。
(手元にある情報の中に答えはない。だとすれば――)
その時だった。
ドォン、と重く湿った音が、静寂に包まれた館の深部から響いた。
続いて、引き裂くような男の悲鳴。
「当主様――っ! 当主様ぁっ!!」
侍従オットーの、狂気すら孕んだ絶叫だった。
ロッソの思考が瞬時に中断される。血の気が引く感覚とともに、彼女は弾かれたように資料室を飛び出した。
薄暗い回廊を疾走する。胸のなかで凶兆の鐘が鳴り響いていた。計算が間に合わなかった。あの男は、探偵が立ち去ったわずかな間隙――思考の死角をついて、自らの導き出した破滅の式を実行に移したのだ。
執務室のドアは半開きの状態だった。
中に飛び込んだロッソの目に飛び込んできたのは、地獄のような光景だった。
重厚な執務机の傍らで、カルロ・ディ・ランベルティが倒れていた。胸元を鮮血に染め、その手には豪奢な短剣が握られている。刃は正確に自らの動脈を断ち切っていた。
「当主様! ああ、当主様……なぜ、なぜこんなことに……っ!」
オットーが膝をつき、血の海の中でカルロの体を抱きかかえながら号泣している。
「カルロ……!」
ロッソは駆け寄り、彼の首筋に指を当てた。だが、伝わってくるのは途絶えた脈拍と、急速に失われていく体温だけだった。即死だった。
外界から閉ざされた孤館の、密室とも言える執務室。証人である侍従の目の前で、一人の男が自らの手で命を絶った。最悪の結末が、完璧な事実として確定してしまった瞬間だった。
(くそっ……! 私の計算が……追いつかなかったというのか!?)
ロッソは溢れ出る血を見つめながら、歯を強く噛み締め、拳を握りしめた。
自らの論理の敗北。友を救えなかったという冷たい敗北感が、胸を刺し穿つ。
その惨劇の室内、血の匂いが充満する入り口の扉の脇に、ひっそりと立つ影があった。
追ってきた少女――ユキだった。
彼女は崩れ落ちるオットーも、血に染まったカルロの死体も、そして絶望に顔を歪めるロッソの姿も、ただ静かに、その氷のような瞳で見つめていた。
その瞳の奥で、まだ誰にも知られない『観測』の歯車が、静かに回りはじめていた。
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