2:重圧の天秤
冷え切った石造りの執務室には、古びた羊皮紙特有の埃っぽさとインクの匂い、そして、死を待つ者ならではの饐えたような静寂が充満していた。
分厚い樫の扉を開け放ち、ロッソが足を踏み入れた瞬間、卓上の蝋燭の炎が微かに揺れた。部屋の中央にある巨大なマホガニーの執務机。その奥に腰掛けていた男が、重々しい動作でゆっくりと顔を上げる。
カルロ・ディ・ランベルティ。
かつて王都の学舎でロッソと共に論理を戦わせた、誇り高き旧友。どんな難解な哲学の命題を前にしても、決して知性の光を絶やさなかった男。しかし、現在の彼の姿に、当時の生気は微塵も残っていなかった。頬は落ち窪み、目の下には深い疲労の影が刻まれている。身に纏う領主代理としての豪奢な衣服が、かえって彼の肉体の衰弱を際立たせていた。
だが、最もロッソを戦慄させたのは、その瞳の奥に宿る「異様なほどの平穏」だった。
狂乱でも絶望でもない。己の運命を完全に受容し、ただ粛々と終わりの時を待つ者の、不気味なまでの凪。
「……やはり、君だったか。オットーが誰かを呼び寄せた気配はあったが、まさか『知恵者』として名高い旧友をこんな辺境の湿地まで引き摺り込むとはな」
カルロのひび割れた唇から、掠れた声が漏れた。
ロッソは無言のまま机の前に進み出ると、黒革の手袋を外し、卓上に散乱する書類を一瞥した。そこには領地の絶望的な財政状況を示す帳簿の山と、近年台頭してきた『ある商会』との間に交わされた血生臭い裏契約書が、整然と並べられていた。
「久しいな、カルロ。だが、旧交を温めるつもりはない」
ロッソの声は、どこまでも低く、刃のように冷徹だった。彼女の胸中には暴れ回るような焦燥感が渦巻いていたが、顔の筋肉は一ミリも動かさず、ただ氷のような眼差しで旧友を射抜いた。
「オットーからすべて聞いた。君は自らの命を盤上から取り除くことで、この領地を縛る巨額の負債を帳消しにしようとしているそうだな。……馬鹿げている。かつて私と論理の美しさを語り合った男が、自己犠牲という不美極まりない悪手に逃げるとは」
「悪手ではない。これこそが唯一の『最適解』なのだよ、ロッソ」
カルロは静かに首を振り、机上の誓約書を指差した。
「先代が残した負債は、度重なる不作と隣領の経済封鎖により、もはや領地の全収入を何十年注ぎ込んでも返済できない額に膨れ上がっている。だが、この特約――当主代理である私個人の死をもって、全債務を免除するという契約さえ履行されれば、領民たちは重税と破滅から救われる。たった一つの命で、数千の命と一族の誇りが守られるのだ」
「それが君の導き出した『重圧の計算式』か」
ロッソは嘲笑するように唇を歪めた。
「ひどく視野が狭窄しているな。当事者特有の致命的なエラーだ。自らの命を定数として差し出す計算など、端から破綻している。原因の根本を解体せずして、死で強引に帳尻を合わせようとするのは、論理への冒涜だ。そもそも、債権者がみすみす巨額の貸しを諦めるはずがない。君を死に追いやることで、彼らはより容易くこの領地を呑み込めるという算段があるはずだ」
「百も承知だ。だが、それでも負債がゼロになれば、残された者たちに抗う余地が生まれる。……君のその完璧な頭脳で、別の変数を弾き出せるというのか?」
カルロの声に、初めて悲痛な響きが混じった。彼は両手で顔を覆い、絞り出すように言葉を続ける。
「数字は冷酷だ。あらゆる手立てを尽くし、幾千回と演算を繰り返した。だが、残された変数は『私の命』以外に存在しなかったのだ!君のような自由な知恵者には分からないだろう……。背負うべき民の命と、失墜していく誇りの重圧が、どれほど人の思考をすり潰すかを!」
激昂するカルロの叫びが、重苦しい執務室の空気を震わせた。背後で控えていたオットーが、耐えきれずに嗚咽を漏らす。
ロッソは沈黙した。
カルロの言葉に、表面上の論理的な隙はない。巨大な負債という「事実」と、死による債務免除という「契約」。この二つの絶対的な条件が揃っている以上、責任感の強い彼が自死を選ぶのは、ある意味で必然の帰結だった。
(……いや、違う。必ずどこかに欺瞞がある)
ロッソはスラックスのポケットから懐中時計を取り出し、冷たい真鍮の感触を確かめた。完璧に見える数式ほど、意図的な「偽装」が潜んでいる。彼をこの極限状況へと追い込んだ見えざる悪意、あるいは彼自身が気づいていない別の選択肢が、この館のどこかに眠っているはずだ。
ドォン、という腹の底に響くような雷鳴が、灰色の空を引き裂いた。
同時に、叩きつけるような猛烈な暴風雨が分厚い石壁を打ち据え始める。アーチ状の細長い窓が不吉な音を立てて軋み、ただでさえ孤立していた水上の館が、外界との繋がりを完全に絶たれたことを告げていた。
物理的な逃げ場の一切ない、真の密室の完成だ。
「……嵐か。どうやら、天すらも私の死を望んでいるらしい」
カルロは自嘲気味に笑い、引き出しから一振りの豪奢な短剣を取り出した。抜き放たれた刃の冷たい銀色が、蝋燭の光を反射して鈍く光る。
「これ以上の議論は無用だ、ロッソ。君の来訪には感謝するが、私の決意は揺るがない。……オットー、彼女を客室へ案内しろ。そしてお前は、私が『自ら命を絶った』という確固たる事実の証人となれ」
「カルロ様!それだけは……!」
床に伏して泣き崩れるオットーを背に、ロッソは無言で踵を返した。これ以上、狂った正気に囚われた男と議論を重ねても、彼の決意を固くするだけだ。彼を救うためには、言葉ではなく、彼の動機(数式)を根底から破壊する「決定的な証拠」が必要となる。
「オットー。私を客室ではなく、館の資料室へ案内したまえ。……それと、カルロ。君から目を離す気はない。この部屋の合鍵は私が預かる」
去り際、ロッソは振り返らずに冷酷な声で言い放った。
「私が真の『解』を導き出すまで、死ぬことは許さない。君の美しくない計算式は、この私が端からへし折ってやる」
刻一刻と迫る旧友の死。閉ざされた水鏡館の中で、冷徹な知恵者の、時間との孤独な闘いが始まった。
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