1:白紙の来訪者
灰色の湖面を裂いて進む小舟の上で、ロッソは濡れた黒革の手袋を固く握りしめていた。
水面を渡る冷酷な湖風が、彼女の黒い外套の裾を烈しくなびかせる。つばの広い帽子の影から覗く瞳は凍てつくように澄んでいたが、その奥底には普段の彼女ならば決して見せることのない、苛烈な焦燥の炎が渦巻いていた。
外界から途絶された水上の孤館――『水鏡館』。
鉛色の空から降り注ぐ冷気の中、湖底から生え出た墓標のようにそそり立つその石造りの城塞を見上げるたび、ロッソの胸中で無機質な心拍数が不吉な警鐘を鳴らす。
胸ポケットに収められた一通の密書が、外套越しに重く肌を圧していた。
そこに記されていたのは、かつて若き日に学問と論理をともに修め、同じ高みを目指した唯一の友――カルロ・ディ・ランベルティの破滅を予言する、悲痛な叫びだった。
ロッソは仕立ての良いスラックスに身を包み、硬い乗馬ブーツで船板を強く踏みしめる。体に沿ったベストとタイ、深紅の差し色が映える漆黒の装いは、一見すると凛とした気品を纏う美青年そのものだった。
「女性」という身分や偏見を排し、あらゆる事象を論理の数式へと還元する「知恵者」。それが他者から見たロッソであり、彼女自身の誇りだったはずだ。感情という不純物を削ぎ落とし、いかなる惨劇をも冷ややかに解体してみせる――その完璧な計算機としての仮面が、今ばかりは内側から軋みを上げていた。
(……急がねばならない。カルロ、愚かな真似をする前に……!)
まだ彼女は知らなかった。未来から過去へと「一言」を届ける時間遡行の術も、その架け橋となる見知らぬ少女の存在も。今のロッソは、ただ己の頭脳と脚だけを頼りに、旧友の死を阻止せんと駆けつけた一人の無力な人間に過ぎないのだ。
ギィ、と不吉な軋み音を立てて小舟が孤館の水門へと横付けされた。
「――到着いたしました」
船頭の声を待たず、ロッソは濡れた石畳の上へと跳び移った。長身の影を滑らせ、水門の奥の暗がりへと迷いなく踏み込む。
そこには、ランプの小さな灯火を掲げた一人の老侍従が待っていた。痛々しいほどに痩せこけた頬、激しい動悸に揺れる肩。侍従オットーは、ロッソの姿を認めると、すがるようにその場にひれ伏した。
「おお……ロッソ様!よくぞ……よくぞお越しくださいました!カルロ様のかつてのご友人であり、噂に聞く卓越した『知恵者』たる貴方様だけが、私の最後の頼みの綱でございます……!」
「挨拶も、仰々しい礼も不要だ、オットー!」
ロッソの抑えた声には、隠しきれない鋭い焦燥が滲んでいた。彼女は手袋をはめた手で老人の腕を掴み上げ、強制的に視線を合わせさせる。
「手紙にあった『領地の帳簿監査』などという建前は真実ではないな。単刀直入に答えろ。カルロの身に何が起きている?彼は……生きているのか!?」
「ひっ……は、はい!まだ……まだお命は無事にございます!ですが……!」
オットーの声が震える。ロッソは深く息を吐き出し、胸の奥で暴れる狂おしい焦りを力ずくで押さえ込んだ。命がある。その一事だけで、凍りついていた脳の計算回路が急速に熱を帯び直す。
「案内したまえ。立ち話をしている猶予はない」
ロッソは長い脚を早めて重厚な回廊を突き進んだ。
壁に掲げられた肖像画、色あせたペルシャ絨毯、暖炉の薪が爆ぜる音。一見すると歴史ある貴族の館だが、空気に含まれる重圧の密度が異常だった。巨大な負債と領地の存続という押し潰されそうな圧力が、館全体をじわじわと絞め殺そうとしている。
案内された応接室に入ると、ロッソは他人に聞かれぬよう重い扉を固く閉ざした。
「さあ、オットー。事の全貌を話してもらうぞ」
ロッソはつばの広い帽子を脱ぎ捨て、乱れた黒髪をかき上げた。組んだ膝の上で懐中時計を取り出し、パチンと蓋を開く。チクタクと刻まれる歯車の音が、彼女の焦りを嘲笑うかのように部屋に響いた。
「カルロは……私の旧友であるあの男は、なぜ死を選ぼうとしているのだ?あいつの論理的な頭脳が、自死などという美しくない破綻を選択するはずがない!」
「……お言葉ですが、ロッソ様。カルロ様は……正気を失っておられるのではありません。むしろ、あまりにも正常に、領地を救うための『数式』を導き出してしまわれたのです」
オットーは床に膝をつき、悲痛な叫びを上げた。
「先代から受け継いだ我が領地の負債は、もはや他領の商会の手へ渡り、全財産を差し出しても返済不能な域に達しております。ですが……カルロ様は、ある恐ろしい『裏契約』を見つけ出されたのです」
「裏契約……?」
「はい。『当主カルロ個人が死亡した場合、負債のすべての責任は故人とともに消滅し、先代からの領地財産および領民への追及は一切免除される』という……一代限りの債務特約でございます」
ロッソの瞳が大きく見開かれた。
「己の命を消去することで、領地の負債を相殺する……だと……!?」
「カルロ様は『これが領主代理としての私の最後の義務だ』と……。身分違いの私では、どれほど泣きついてもお止めすることができません!お願いです、ロッソ様!カルロ様を……主人の狂った計算を止めてくださいませ!」
冷酷なまでの自己犠牲。真面目で、責任感の強かった旧友の顔がロッソの脳裏をよぎる。あいつは正気だ。正気で、本気で、己の命を代償に領地を救おうとしているのだ。
「……愚か者が」
ロッソは懐中時計の蓋を激しく叩き閉めた。金属音が密室に高く響き渡る。
彼女の全身から、冷ややかな論理と、熱い焦燥が混ざり合った異様な気が立ち上っていた。
「自己犠牲などという美しくない解を、この私が認めると思うか!原因(Why)を完全に解体すれば、死の数式など容易く崩壊するのだよ。……カルロ、君のその狂った計算式、私が端から叩き潰してやる!」
旧友の救出という個人的な執念を胸に、男装の麗人は、絶望の渦巻く執務室へと足を進めた。
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