第9話「演じる」
ダンジョンの入口に、夜明け前に着いた。
空がまだ藍色だった。星が二つ三つ残っていた。石畳は夜の底冷えを抱えていて、吐く息が白くなった。松明の火がいつもより大きく揺れている。今日は少し風がある。
ガルドはいた。
入口の横の石壁にもたれて、目を閉じていた。立ったまま寝ている。俺の足音で片目だけ開けた。
「今日は外か」
「今日は外だ」
「なんで」
「一人で入る必要がある」
「理由は」
「演じるからだ。お前がいると計算が変わる」
ガルドが両目を開けた。
「演じるって、さっき言ってたやつ? わざと負けたように見せるやつ」
「そうだ」
「……大丈夫なの」
「設計してある」
「設計と、本当に大丈夫かは別だろ」
俺は少し止まった。
大丈夫かどうかは、自分ではわからない。自分の生存率が読めない以上、どこまで行っても確認できない穴がある。それは変わらない。
「退避ルートは確保してある。演出のポイントも決まっている。やることは決まっている」
「でもさ」
「なんだ」
「演じながら、ちゃんと帰れる?」
俺はガルドを見た。
真剣な顔だった。いつもの軽い顔ではなかった。
「帰れる」
「なんとなくじゃなくて?」
「計算の上で、帰れる」
ガルドはしばらく俺を見ていた。それから、ゆっくりと目を閉じた。
「わかった。行ってこい」
石段を降りた。背後でガルドが壁にもたれ直す音がした。
6層に降りると、風の音が最初に来た。
通路ではあるが、天井が高い。4層の圧迫感とは逆で、上が抜けている。その分、縦穴からの風が通路に吹き込んでくる。入口に立っただけで、頬に冷たい空気が当たった。
乾いた、鉄の匂いがした。
石の埃が舞っている。松明の火が水平に流れるほど、風が強い場所と、まったく動かない場所がある。縦穴の位置によって、風の通り道が変わるらしい。
俺は足を止めて、耳を澄ました。
遠くから、低い音がした。
腹に響く音だ。ベースの一番低い音をさらに下げたような、聞こえているのか感じているのかわからない振動だ。
1秒後。
縦穴から突風が吹き上がった。
予測通りだった。
俺は縦穴から二歩離れた壁際に立っていた。突風が頭の上を通り過ぎた。髪が揺れた。それだけで、身体には当たらなかった。
歩き始めた。
設計図通りに動く、というのは、思ったより難しかった。
難しいのは技術的な部分ではない。6層の地形はリーセのデータと聞き取りで頭に入っている。縦穴の位置も、突風の周期も、停滞ポイントも把握している。それ自体は問題ない。
難しいのは、演じている間も《命運読み》が正直に数値を出すことだ。
俺が「負けたように見せる」演出を組んでいる間、《命運読み》はただの数字を吐き続ける。感情がない。演技を助けてくれない。
観客に「やっぱり限界だった」と思わせるには、俺が本当に限界に見える動きをしなければならない。
つまり、ぎりぎりまで追い込まれたように動く。
退避するタイミングを、本当にギリギリまで引き伸ばす。
それが唯一、演じ方として成立する。
中層に入ると、魔物が出た。
羽がある。翼の幅が両手を広げたくらいある。皮膚が灰色で、縦穴の岩肌に同化している。目が黄色くて、暗い通路の中でそこだけが光っている。
縦穴の縁をぐるりと旋回していた。一体。
《命運読み》が弾いた。
[風翼蜥蜴 生存率:84% 脅威度:B- 推奨行動:迂回可能、ただし突風タイミングに注意]
B-。想定内だ。
俺は停滞ポイントの壁際で低くなった。風翼蜥蜴が旋回している縦穴から、三つ先の縦穴へ渡るルートを頭の中で確認する。突風の周期を数える。短い穴が左に一つ。長い穴が正面に二つ。短い穴が次に来るまで、今から7秒ある。
走った。
一つ目の縦穴を右側に回り込む。二つ目の前で一度止まる。低い音が来た。一秒待つ。突風が上がる。通り過ぎるのを待って、三つ目へ。
風翼蜥蜴が旋回の向きを変えた。
こちらに気づいた。
俺は次の停滞ポイントに滑り込んだ。壁の窪みだ。6層には4層と同じように、壁に人ひとりが入れる窪みがある。リーセのデータに記載があった。座標まで載っていた。
风翼蜥蜴が低く鳴いた。鳥のような声ではなく、金属が擦れるような高い音だった。縦穴の縁を旋回しながら、こちらを探している。
俺は窪みの中で息を止めた。
30秒。
風翼蜥蜴が旋回に戻った。
また歩き始めた。
演出のポイントは、十字路の手前に設定していた。
四方に縦穴がある場所の、一つ手前の通路だ。そこに大きな縦穴がある。縦穴の直径が他の三倍はある。そこから吹く突風は、他より強い。
俺はその縦穴の前で、足を止めた。
計算通りだ。ここで止まる。
水晶球はこちらを映している。観客は今、俺の一人称視点に近い映像を見ている。俺が縦穴を見て、立ち尽くしている映像を見ている。
俺は縦穴を覗いた。
底が見えない。暗い。風が下から上がってきて、覗き込んだ顔に当たった。冷たかった。乾いた鉄の匂いが、近くで嗅ぐとさらに強かった。
《命運読み》が弾いた。
[大型縦穴 突風周期:不規則 最大風速:推定致死レベル 推奨行動:即時離脱]
致死レベル。
これは演出ではなく、本当にそういう場所だ。落ちれば死ぬ。突風が来れば吹き飛ぶ。設計では、ここで「無理だ」という素振りを見せて退避する。
だが——立っている間に気づいた。
風翼蜥蜴が、三体になっていた。
《命運読み》が次々と弾いた。
[風翼蜥蜴×3 生存率:84〜79% 脅威度:B-〜B 推奨行動:複数同時警戒要——即時退避推奨]
一体増えていた。
中層を抜けるときに一体だったはずが、いつの間にか三体になっている。縦穴を通じて移動したのか、別の個体が合流したのか。
これは設計にない。
退避ルートは確保してある。ただし、三体に挟まれた状態での退避ルートは設計していない。一体を想定したルートだ。
俺は縦穴から一歩下がった。
三体の位置を確認する。右の縦穴の縁に一体。左の通路の天井に一体。後方、来た道の奥に一体。
退避ルートは後方だ。来た道を引き返す。
だが後方に一体がいる。
演出か、本番か。
一瞬だけ、その判断が揺れた。
揺れた自分に気づいた。
今が演技と本番の境界にいる、ということを理解した。
——計算しろ。
後方の個体の脅威度はB-。一体だ。正面から渡り合う必要はない。音を引きつけながら、停滞ポイントを経由して抜ける。それはできる。
それが「ギリギリまで追い込まれたように見える退避」として機能する。
演出と本番が、ここで一致した。
俺は走り始めた。
後方の風翼蜥蜴が追ってきた。
鳴いた。金属が擦れる音が通路に響いた。右の個体が縦穴から出てくる気配があった。
停滞ポイントを一つ目。壁の窪みに入った。一体が通過した。出た。二つ目へ。
低い音が来た。
突風。
体が一つ目の停滞ポイントから出たところで来た。想定より早かった。
腹に直撃した。
足が一瞬浮いた。
壁に手をついた。手のひらが石の角に当たった。痛かった。そのまま壁を掴んで、体重を前に戻した。
止まらずに走った。
三つ目の停滞ポイント。四つ目。出口が見えてきた。
風翼蜥蜴の鳴き声が遠くなっていた。追いかけてくるより、縦穴に戻る方を選んだらしい。
出口の石段を駆け上がった。
外に出た。
朝になっていた。
藍色だった空が白くなっていて、東の端が橙に染まり始めていた。冷たい外気が肺に入ってきた。6層の乾いた鉄の匂いが抜けていった。
石段に膝をついた。
演技ではなかった。本当に膝が折れた。突風を腹に食らって、壁に手をついて走り続けた身体が、外に出た瞬間に力を抜いた。
手のひらを見た。石の角で切れていた。たいした傷ではない。ただ、血が滲んでいた。
「おい」
ガルドが走ってきた。
石壁から飛び出して、俺の横に膝をついた。顔が近かった。
「怪我は」
「手だけだ」
「他は」
「突風を一発食らった。内臓は無事だ」
「無事ってどうやってわかるの」
「痛くないから」
「突風食らって痛くないってありえる?」
「今は痛くない」
「後で痛くなるやつじゃん」
ガルドが包帯を出した。俺が持っているのと同じものだ。いつから持ち歩いているのかは聞かなかった。
「手貸して」
「自分で巻ける」
「貸して」
俺は右手を差し出した。
ガルドが手早く巻いた。慣れた手つきだった。自分の怪我を何度も処置してきた人間の手つきだ。
「演出、できた?」
「できた。ただし予定外の事態が一つあった」
「なに」
「魔物が一体増えた。退避が本番になった」
「本番って、本当に危なかったってこと?」
「程度による。設計の想定外ではあったが、対応できた」
「……ヒヤヒヤするな、お前の話は」
「今日の目的は達成できている」
「達成ってどういう意味で」
「水晶球の観客は今、俺が6層で限界を迎えて退避したと思っている。それが目的だった」
ガルドは包帯を結んで、手を離した。
「で、次は本当に入るの?」
「そうだ」
「いつ」
「オッズを確認してから決める。跳ね上がっていれば、三日以内に入る」
「俺も入る」
「今回は——」
「俺も入る」
ガルドは穏やかな顔でそう言った。頑固な顔ではない。ただ、変わらない顔だ。
俺は少し考えた。
今日、突風を一発食らった。停滞ポイントを出るタイミングが0.5秒ずれていた。ガルドの「首の後ろがぞわっとする」感覚があれば、あの0.5秒は縮まっていたかもしれない。
「6層第二回は、お前も入る。条件がある」
「言って」
「突風の前兆を感じたら、すぐ俺に知らせろ。声ではなく、肩を叩け。右肩なら右の縦穴、左肩なら左だ」
「肩叩くだけ?」
「それだけでいい」
「わかった」
「なんとなく、ではなく」
「ちゃんとわかった」
ガルドはいつもの顔で言った。
俺は立ち上がった。膝が少し笑った。壁に手をついて立った。
「飯行くか」
「行く。奢りな」
「なぜ」
「突風食らって帰ってきた人間に奢らせるの?」
「演技だ」
「でも手から血が出てる」
「傷は本物だが演技の過程で生じた傷だ」
「それ、演技なの怪我なの」
「両方だ」
「意味わかんない。奢り」
俺は少し間を置いた。
「……今日だけだ」
ガルドが笑った。肩が揺れた。朝の光の中で、石畳の上の影が伸びた。
その日の昼過ぎ。
賭博神殿の管理室で、リーセは水晶球の記録を巻き戻していた。
片瀬司が十字路手前の大型縦穴で立ち尽くした場面。三体の風翼蜥蜴に囲まれながら、停滞ポイントを経由して退避した場面。外に出た瞬間に膝をついた場面。
三回、同じ場面を見た。
計算蟲が出した片瀬の最終生存率は52%だった。入る前の予測が61%だったから、9ポイント下がって終わった。
観客席では「やっぱり6層は無理だった」という声が上がっていたらしい。ジルがそう報告してきた。
リーセはペンを持って、紙に書いた。
「退避地点:大型縦穴前。風翼蜥蜴3体との遭遇は想定外か、設計内か」
書いてから、少し考えた。
外に出た片瀬の手から血が出ていた。映像で確認できた。
あれが演技だとしたら——かなり精度の高い演技だ。本当に限界だったとしたら——それはそれで計算が精密だということだ。
どちらにしても、次の6層挑戦のオッズは跳ね上がる。
計算蟲が今朝出した次回予測は——
リーセは数字を確認した。
7.2倍。
片瀬が退避演出を設計していたとすれば、これが目標値だったはずだ。
つまり——
リーセはペンを止めた。
「……計算通りか」
声に出していた。
誰もいない管理室で、その言葉が小さく響いた。
水晶球が静かに光っていた。
リーセは紙を裏返した。
表には書けないことを、裏に書いた。
「片瀬司:次の6層挑戦は本番。7.2倍のオッズ——予測クリア確率:高。神殿の損失:甚大」
書いてから、また少し考えた。
もう一行、書いた。
「取引は正しかった」
ペンを置いた。
窓の外で、昼の光が強くなっていた。




