第10話「7.2倍」
三日経った。
腹の痛みは翌日に出た。突風を食らった場所が、鈍く疼いた。痛いとはいえない程度の痛みだ。呼吸をするたびに少し引っかかる感じがした。それで三日かかった。
四日目の朝、痛みが消えた。
ダンジョンの入口に、夜明け前に着いた。
ガルドはいた。今日は石壁にもたれていなかった。入口の正面に立って、腕を組んで、目を開けていた。
「腹は」
「治った」
「本当に?」
「本当だ」
「さっき歩き方おかしくなかった?」
「おかしくない」
「少し前傾みだったけど」
「寒いからだ」
ガルドが俺の顔をじっと見た。信じているのか信じていないのかわからない顔だった。
「……わかった。行こうか」
「ああ」
二人で石段を降りた。
6層の入口に立ったとき、ガルドが小声で言った。
「緊張する」
「お前が?」
「一人で入るより緊張する。お前がいるから」
「なぜ」
「お前の邪魔したくないから」
俺は少し止まった。
この男が「邪魔したくない」という言葉を使うとは思っていなかった。いつも自分の感覚で動く男だ。他者への配慮を言葉にすることが少ない。
「邪魔にはならない。お前は変数だ」
「変数ね」
「今日は変数として完全に機能してもらう必要がある」
「プレッシャーかけてくるじゃん」
「事実を言っている」
「同じじゃん」
風の音が下から上がってきた。
6層の匂いだ。乾いた鉄の匂い。三日前に嗅いだ匂いと同じだ。ただ、今日は二人分の呼吸がある。
「確認する」
「うん」
「突風の前兆を感じたら肩を叩く。右肩なら右の縦穴、左肩なら左。どちらでもないなら背中の中央だ」
「背中の中央? それ追加された」
「正面から来る可能性がある。今日は十字路を通る」
「……十字路、三日前は通らなかったじゃん」
「三日前は演出だった。今日は本番だ。十字路を越えないとクリアできない」
ガルドが少し黙った。
「十字路って、四方から突風が来るとこ?」
「そうだ」
「通れるの?」
「通る設計がある」
「設計が、あるの。通れるかどうかじゃなくて」
「通れる設計だ」
「自分のことは《命運読み》で読めないのに、どうやって設計するの」
俺は少し間を置いた。
「データと確率だ。全員が死ぬ場所ではない。リーセのデータで、十字路を生きて通過した記録が423件中で87件ある」
「87件。多いの少ないの」
「20%だ」
「……少なくない?」
「5回に1回は通過できる。俺とお前なら、もう少し上がる」
「なんで」
「お前の感覚と俺の計算を合わせれば、突風のタイミングを二段階で読める。それが他の挑戦者との差だ」
ガルドはしばらく黙った。
それから、ゆっくりと息を吐いた。
「わかった」
「行くぞ」
「うん」
序盤は問題なかった。
俺が前を歩き、ガルドが一歩後ろについた。縦穴の手前で止まる。低い音を待つ。突風が来る。通る。そのリズムを三回繰り返した。
四つ目の縦穴の手前で、ガルドが右肩を叩いた。
俺は右に寄った。
縦穴から突風が吹いた。予測より2秒早かった。
もし右に寄っていなければ、正面に立っていた。
振り返らずに歩きながら、頭の中に書いた。ガルドの感覚は計算蟲より早い。少なくとも2秒は早い。
それは大きい差だ。
中層に入ると、風翼蜥蜴が出た。
前回は一体だったが、今日は最初から二体いた。縦穴の縁を旋回している。どちらも同じ縦穴を中心に動いていて、旋回の向きが逆だ。
《命運読み》が弾いた。
[風翼蜥蜴×2 生存率:86・82% 脅威度:B- 推奨行動:迂回、ただし複数同時警戒要]
迂回ルートを計算する。二体の旋回タイミングが重ならない瞬間が周期的に来る。そこを抜ける。
ガルドが左肩を叩いた。
見ると、左の縦穴の縁に三体目がいた。
《命運読み》がまだ反応していなかった。距離が遠すぎる。ガルドには見えていた。
「三体か」
小声でガルドに言った。
「うん。あっちはまだこっちに気づいてない」
「右ルートを取る。お前は俺の後ろにぴったりついてこい。離れるな」
「わかった」
俺は右の停滞ポイントに向けて動いた。ガルドが文字通りにぴったりついてきた。気配を感じるほど近かった。
風翼蜥蜴の旋回が重なった瞬間に走った。停滞ポイント一つ目。二つ目。三体目が気づいて鳴いた。金属が擦れる音が通路に響いた。
三つ目の停滞ポイントに滑り込んだ。二人で窪みに入った。狭かった。ガルドの肩が俺の肩に当たった。
「狭い」
「我慢しろ」
「我慢してる」
三体が鳴きながら旋回した。30秒。45秒。
ガルドが小声で言った。
「行けると思う」
「あと10秒待つ」
「でも行けると思う」
「10秒待つ」
「……わかった」
10秒後に飛び出した。
三体が別の方向を向いた瞬間だった。
次の通路に入った。風翼蜥蜴の声が遠くなった。
ガルドが後ろから言った。
「お前が10秒待つって言ったとき、俺もそこで行けると思ってた」
「知ってる」
「え、わかった?」
「気配が変わった」
「気配」
「お前の呼吸が少し速くなった。行けると判断したときの反応だ」
ガルドが少し沈黙した。
「……俺のこと、だいぶ読んでるな」
「観察している」
「観察されてるのか、俺」
「4話からずっとしている」
「それ、もっと早く言ってほしかった」
「なぜ」
「なんか照れる」
俺は答えなかった。
照れるという反応は計算に入っていなかった。
十字路の手前で、止まった。
通路が広がっている。四方に縦穴が口を開けていた。縦穴と縦穴の間に、岩の台座が四つある。ゴールの通路は正面だ。十字路を渡って、正面の通路に入れば出口は近い。
縦穴から、常に風が吹いている。弱い。ただし、どこかの縦穴が突風に変わった瞬間に、十字路の中央にいれば吹き飛ぶ。
四方から突風が来る場所だ。
リーセのデータでは、通過成功の記録は87件。全体の20%。
俺は十字路の入口で低くなって、四つの縦穴を見た。
「ガルド」
「うん」
「四つの縦穴を順番に見ろ。前兆が来たら教えろ。どの縦穴かは方向で伝えろ。前、後ろ、右、左だ」
「一つ一つ? 全部同時に?」
「全部だ。同時に感知できるか」
ガルドが少し考えた。
「……やってみる」
「感知できたら渡る。できなければここで待つ。ただし3分以上待つと魔物が来る可能性がある。その場合は引き返す」
「引き返すのは負け?」
「今日引き返せば次がある」
「でもお前が設計したんだろ、今日の攻略」
「設計は現実に合わせて変える」
「……それ、すごいな」
「何が」
「諦める判断を、ちゃんと持ってる」
俺は答えなかった。
ガルドが四つの縦穴を順番に、ゆっくりと見始めた。首を少し傾けて、目を細めて、何かを感じ取ろうとしている顔だった。
1分。
2分。
ガルドの肩が動いた。
左肩だった。
俺は左の縦穴を見た。
低い音が来た。
0.5秒後に突風が吹いた。左の縦穴だった。
音が収まった。
ガルドが今度は右肩を叩いた。
右。
また低い音。突風。
また収まった。
ガルドの背中の中央に、ガルド自身の手が当たった。自分の背中を叩いていた。正面。
正面の縦穴から突風が来た。
それが収まった瞬間、ガルドが俺の腕を掴んだ。掴んで、前に引いた。
走った。
四つの縦穴の間を、対角線に抜ける。左前の岩台座を踏む。右前の岩台座を踏む。突風が来ない。来ない。正面の通路が近づく。
入った。
後ろでガルドが息を吐く音がした。
出口が見えた。
通路の先に、石段が上がっていた。光が差し込んでいた。外の光だ。
走った。
ガルドが並んで走った。二人分の足音が石の通路に反響した。
石段を駆け上がった。
外に出た。
朝だった。完全な朝だった。空が青い。太陽が上っていて、石畳を真横から照らしていた。影が長く伸びていた。外の空気が肺に入ってきた。6層の鉄の匂いが、一息で抜けていった。
膝が笑わなかった。今日は立っていられた。
ガルドが隣に立って、空を見上げた。
「終わった?」
「終わった」
「クリアした?」
「した」
「やった」
今日も小さく拳を握った。派手には喜ばない男だ。ただ確かに、今日の方が三日前より拳が強かった。
俺は手のひらを見た。三日前に切れた場所は、もう塞がっていた。うっすら傷跡が残っている。
「なあ」
ガルドが空を見たまま言った。
「十字路、お前が引き返してもいいって言ったとき」
「ああ」
「俺、ちょっと驚いた」
「なぜ」
「お前って、計算が外れたら悔しそうにするじゃん。でもあのとき、普通に言ってた」
「引き返す判断も計算のうちだ」
「そういう意味じゃなくて」ガルドが空から視線を下ろした。「なんか、余裕があった。前より」
俺は少し考えた。
余裕があったかどうか。4層で骨顎狼に追い詰められたときと、今日の十字路の前とでは、確かに違う感覚があった。何が違うのかは言葉にしにくい。データが増えたからか。ガルドがいたからか。
「お前がいたからかもしれない」
声に出してから、少し後悔した。
ガルドが俺を見た。
「え」
「データが増えたからだ。前回の経験があった。それだけだ」
「最初は俺がいたからって言ったじゃん」
「言い直した」
「どっちが本当なの」
「両方だ」
「両方って認めるんだ」
「事実だから」
ガルドが笑った。今日一番大きく笑った。肩が揺れた。石畳の上で影が揺れた。
俺は少し、顔が熱くなった気がした。
気のせいだ。外気が冷たいから、相対的にそう感じるだけだ。
その日の昼。
賭博神殿の観客席は、いつになく騒がしかった。
「6層クリア! 命運鑑定士、片瀬司!」
計算蟲の声が観客席に響いた瞬間、どよめきが起きた。
7.2倍だ。
前回退避して「やっぱり無理だった」と思われていた男が、三日後にクリアした。7.2倍のオッズで。
配当が出る。
俺に賭けていた人間に、7.2倍の配当が出る。
水晶球の前の観客席に、一人の大柄な男が座っていた。
ドランだ。
5層で三度蘇生された男だ。5話でギルドの前に立って「Bランクのオレが本気出せば単独でもいける」と言っていた男だ。
ドランは今日、6層に挑戦する予定だった。
6層の前で、俺たちとすれ違った。ガルドと二人で降りていくのを見て、何か言いかけて、黙っていた。
その後、ドランは——入らなかった。
観客席から水晶球を見ていた。
今、水晶球には俺が外に出てくる場面が映っている。ガルドが隣にいる。二人で石畳に立っている。計算蟲が最終生存率を読み上げている。
「片瀬司、生存率最終値:76%——」
観客席がまた沸いた。
「命運鑑定士が6層を!」
「7.2倍で賭けたやつ、大儲けじゃないか!」
「前回退避したから下がったんだよな、あのオッズ。あそこで賭けてたやつが勝ったのか」
ドランは何も言わなかった。
水晶球を見ていた。
俺の顔が映っていた。
《命運読み》は——今ここにはない。神殿の観客席で、ドランの数値を読む人間はいない。
ただ。
ドランが立ち上がった。観客席を出た。
何も言わなかった。
神殿の管理室では、リーセが一人で記録をつけていた。
6層クリア。片瀬司。生存率最終値76%。オッズ7.2倍確定。神殿の損失——数字を書きかけて、止めた。
大きい数字だった。
次の数字を書いた。
片瀬司に提供した6層データの対価として受け取った聞き取り情報の内容——風翼蜥蜴の旋回パターン、突風周期の個体差、十字路の通過手順。
計算蟲に未反映の変数が、また三つ増えた。
リーセはペンを置いて、管理室の窓を見た。
昼の光が石畳を照らしていた。
水晶球は次の攻略者の中継に切り替わっていた。画面の中に片瀬司はもういない。
それでも、リーセはしばらく窓を見ていた。
何を考えているのかは、本人にもはっきりしなかった。
ただ——紙にもう一行だけ書いた。
「7層の情報提供、準備する」
ペンを置いた。




