第8話「設計図」
6層に入った経験のある冒険者を探すのに、三日かかった。
5層より少ない。そういう層だ。生きて帰れる人間が少ないから、話を聞ける人間も少ない。ギルドの帰還記録を遡ると、直近三ヶ月で単独クリアがゼロ、パーティクリアが二件だけ。そのパーティのメンバーは一人が廃業していて、一人が街を出ていた。
残りの一人が、酒場の隅に座っていた。
四十代くらいの女だった。右手の指が二本、第二関節からなかった。革鎧は着ていない。もう冒険者を引退したらしい。俺がギルドカードを見せると、少し目を細めた。
「命運鑑定士か」
「そうだ。6層の話を聞きたい」
「銀貨でいくら出す」
「10枚。ただし有用な情報だった場合だけ」
「有用かどうか、誰が決める」
「俺が決める」
女は少し考えてから、ジョッキを一口飲んだ。
「8枚、先払い」
「5枚先払い、残り5枚を後払い。有用だった分だけ」
「……6枚先払い、残り4枚」
「わかった」
俺は銀貨を6枚テーブルに置いた。女はそれを見てから、話し始めた。
6層は風の層だ、と女は言った。
石の通路に戻る。ただし、通路の至る所に縦穴が開いていて、そこから常に風が吹き上がってくる。風の強さが一定ではない。突然強くなって、人間を吹き飛ばすほどの突風に変わる。
魔物は風に乗って移動する。羽がある。翼竜の小型版のような形で、縦穴の周辺を旋回している。縦穴から吹く突風を利用して、上昇したり急降下したりする。
「縦穴から離れて動けばいいんじゃないか」
「縦穴が多いんだよ。三歩に一つはある。縦穴のない通路なんて、ほとんどない」
「突風のタイミングに規則性はあるか」
「あるかもしれないけど、わからなかった。パーティで行ったから、個人で調べる余裕がなかった」
「魔物が突風で動く方向は」
「大抵、上から下。縦穴から上がってきて、通路を水平に飛んで、また縦穴に入る。ループしてる」
「ループの周期は」
「長いのと短いのがある。短いので30秒くらい。長いので3分以上あった」
俺は紙に書きながら聞いた。
「縦穴の縁を歩けるか」
「歩けるけど、突風が来たら飛ばされる。縦穴の縁は危ない」
「突風の直前に何か前兆はあるか」
女が少し止まった。
「……音が変わる。縦穴の底からくぐもった音がする。低くて、腹に響くような音。それが来てから1〜2秒後に突風が来てた」
「必ず前兆が来るか」
「少なくとも俺たちが入ったときは全部来てた」
俺はペンを止めた。
腹に響く低い音。
5層の振動の前兆と似た構造だ。ガルドが教えてくれたやつと。
「最後に」と俺は言った。「6層でもっとも危険な場所はどこだ」
女は少し間を置いた。
「中層の十字路。縦穴が四方にある場所。突風が四方向から来る。そこで俺たちのパーティは一人死にかけた」
俺は銀貨を4枚追加した。
女は数えてから、また酒を飲んだ。
「生きて帰れよ」
「そのつもりだ」
宿に戻って、紙を広げた。
縦穴の配置。突風の前兆。魔物の移動パターン。十字路の位置。
それを並べながら、もう一枚別の紙を横に置いた。
オッズの計算だ。
今の俺の数字は2.3倍。このまま6層をクリアすれば、さらに下がる。おそらく1.8倍か1.9倍になる。1.8倍のオッズで俺に賭けても、協力者への配当が薄い。資金が集まらない。
だから——一度、大きく外す必要がある。
俺が「負けた」ように見える場面を作る。6層で途中退避する。完全撤退ではなく、魔物に追われて、ギリギリのところで出てくる。それを水晶球で見た観客が「やっぱり限界が来た」と思う。次の6層再挑戦のオッズが跳ね上がる。
そのオッズで、俺に賭けてもらう。
そして——クリアする。
問題が一つある。
途中退避をすると、リーセが動く。連続クリアではなく途中退避、という異常な結果が出れば、神殿の調査が正式になる。
俺は紙の端に書いた。
リーセ・ヴァルト——使えるか?
観察と警戒が同時に出た女。排除ではなく理解しようとしている女。
神殿側の人間だが、神殿の言いなりではないかもしれない。
まだわからない。
翌朝、ギルドに向かう途中でガルドが現れた。
今日は路地の角ではなく、宿の前で待っていた。壁にもたれて目を閉じていたが、俺の足音で目を開けた。
「早いな」
「お前が早い」
「何時に起きたの」
「四時だ」
「それは早い」
並んで歩き始めた。朝の路地はまだ人が少なくて、石畳に俺たちの足音だけが響いた。パン屋が扉を開けたところで、焼けた小麦の匂いが漏れてきた。
「6層の情報、集まった?」
「昨日で三人目の話を聞いた。ある程度見えてきた」
「どんな層なの」
「風の層だ。縦穴から突風が来る。魔物は羽を持っていて風に乗って動く」
「飛ぶやつか」
「そうだ」
「俺、飛ぶやつ得意だぞ」
「なぜ」
「なんとなくタイミングがわかる」
俺は少し歩きながら考えた。
5層でガルドの直感が計算を上回った場面が一度あった。早踏みのタイミング。あれが生存率を上げた変数になった。
飛ぶ魔物のタイミング。
「……具体的にどういうタイミングがわかる」
「いつ急降下してくるか。なんとなく、身体がわかる」
「身体が?」
「うまく言えないんだけど、首の後ろがちょっとぞわっとする。そのちょっと後に来る」
首の後ろの感覚。
俺は紙を出してその場で書いた。歩きながら書いた。
「何秒前にぞわっとする」
「計ったことないけど、1秒くらいじゃないかな」
「突風の前兆が1〜2秒前に来る、という情報と合う」
「前兆があるんだ」
「音だ。低い音が腹に響く」
「俺それ聞こえないかも」
「聞こえなくても、お前の身体が感知してるなら同じことだ」
ガルドが少し黙った。
珍しい間だった。歩きながら、何かを考えている顔をしていた。
「……お前ってさ」
「なんだ」
「俺の直感、ちゃんと使おうとしてる?」
「使える変数なら使う」
「変数じゃなくて、俺な」
「変数とは道具という意味ではない。計算に組み込める要素という意味だ」
「それ、どう違うの」
「道具は替えがきく。変数は固有のものだ。お前の直感は、他の何かで代替できない」
ガルドがまた黙った。今度はもう少し長い間だった。
「……なんかそれ」
「なんだ」
「嬉しいな」
俺は返事をしなかった。
嬉しいと言われることを想定していなかった。事実を言っただけだ。ガルドの直感値はエラーが出る。計算蟲も弾けない。それは固有のものだ。替えがきかない。それだけの話だ。
ただ——返事ができなかった。
ギルドで帰還記録を調べていると、後ろに気配がした。
振り返る前に《命運読み》が反応した。
《命運読み》が弾いた。
[賭博神殿管理人・リーセ・ヴァルト 生存率:97% 脅威度:C ——観察——]
警戒が消えていた。
昨日は警戒と観察が同時に出ていた。今日は観察だけだ。
振り返ると、リーセが立っていた。制服。束ねた髪。表情のない顔。ただ、昨日より少しだけ立ち位置が近かった。
「また来た」
「はい」
「用件は」
「昨日の続きです」
「昨日の話は終わったはずだが」
「私の方はまだ終わっていません」
リーセは手帳を開かなかった。代わりに、少し声のトーンを落とした。
「片瀬司さん。一つ聞いていいですか」
「聞け」
「6層で、途中退避するつもりですか」
俺は帰還記録から目を上げた。
リーセを見た。
灰色の目が、まっすぐこちらを向いている。
「なぜそう思う」
「2.3倍のオッズでクリアしても、配当が薄い。あなたが情報収集をして協力者に配当を渡すパターンで動いているなら、一度オッズを上げる必要がある。オッズを上げる最短の方法は、派手に失敗して見せることです」
俺は少し間を置いた。
「神殿の管理人がそれを俺に言うのか」
「言っています」
「神殿にとって不利なことだ。俺がオッズを操作すれば、神殿の収益計算が狂う」
「そうです」
「なぜ言う」
リーセが少しだけ視線を動かした。俺の後ろを一瞬見て、また戻した。ガルドが少し離れたところで帰還記録を眺めているふりをしていた。
「話せる場所に移れますか」
俺は帰還記録を閉じた。
ギルドの裏手に、小さな中庭があった。
石造りの壁に囲まれた、人が来ない場所だ。枯れた草が石畳の隙間から生えていて、風が吹くたびにかさかさと揺れる。昼前の光が壁の上から差し込んで、中庭の半分を白く、半分を影にしていた。
リーセが石壁に背をつけて、俺の方を向いた。
いつもの無表情だった。ただ、立ち方が少し違う。体重が右足に偏っている。わずかだが、緊張している人間の立ち方だ。
「あなたの攻略パターンを、三層分分析しました」
「俺を分析したのか」
「それが仕事ですから」
「それで」
「あなたは計算蟲の盲点を突いている。聞き取りで得た個別情報を使っている。それは把握しています」
「昨日聞いた」
「その上で、一つ提案があります」
風が吹いた。枯れ草が揺れた。リーセの髪の端が動いた。
「私も、情報を持っています」
俺は何も言わなかった。
「神殿は全攻略者のデータを蓄積しています。過去十年分。各層の魔物の出現パターン、気温と活性度の相関、攻略者のルートと生存率の関係。それを私はリアルタイムで見られます」
「神殿のデータを俺に渡すのか」
「渡しません」
「では何だ」
「あなたが持っていない情報と、私が持っていない情報を、交換する」
俺は少し考えた。
「俺が持っていない情報とは何だ」
「計算蟲が参照していない変数です。あなたが聞き取りで集めているもの。それを私の分析に加えれば、計算蟲の精度が上がる」
「つまり俺の情報で、神殿の計算を改善させたい」
「そうです」
「神殿側に有利な話だ」
「あなたにも有利です」
「何が」
「私が持つ十年分のデータです。各層の詳細な魔物行動パターン。聞き取りでは絶対に得られない量と質のデータ。それと交換します」
中庭が静かだった。
枯れ草の揺れる音だけがあった。
俺はリーセの顔を見た。感情が読めない顔だ。ただ、《命運読み》の「観察」という文字は、まだそこにあった。
「なぜ俺にそれを持ちかける」
「あなたが止まらないからです」
「止まる理由がない」
「そうです。止める方法が私にはない。規定の範囲内で動いているあなたを排除する根拠が、神殿にはない」
「だから取引にしようとしている」
「はい」
正直な回答だった。
俺は石壁に寄りかかって、空を見た。中庭の上に切り取られた空が、白く光っていた。
「条件を聞く」
「俺が聞き取りで得た情報を、各層クリア後に私に提供する。私はその層の詳細データを事前にあなたに提供する」
「俺の聞き取り情報が神殿の計算精度を上げれば、将来的に俺の手が使えなくなる」
「使えなくなります」
「それを承知で提案している」
「はい。ただ——」
リーセが少しだけ間を置いた。一秒。
「今は使えます。今、6層と7層と8層がある。その間、私のデータは有効です」
俺は空から視線を下ろした。
リーセを見た。
この女は今、神殿の利益と俺の利益が短期的に一致する場所を計算して、そこだけを提示してきた。長期的には神殿が得をする取引だ。だがそれを隠さずに言った。
「一つ確認する」
「はい」
「お前は神殿の上層部にこの取引を報告しているか」
リーセの視線が、一瞬だけ動いた。
「……していません」
「なぜ」
「報告すれば、却下されます」
「神殿にとって不利だからか」
「神殿の上層部は、あなたを排除したいと思っています。取引ではなく」
「そちらが本音か」
「私の判断では、排除より取引の方が神殿にとって長期的に有利です。ただ、上層部はそう考えていない」
俺は少し考えた。
この女は独断で動いている。神殿の上層部に背いて、俺に接触してきた。
《命運読み》がもう一度弾いた。
[リーセ・ヴァルト 生存率:97% 脅威度:C ——観察—— ——賭け——]
賭け。
新しい文字が出た。
この女は今、自分の判断に賭けている。
「わかった」
俺は言った。
「6層の情報を先に出せ。俺が判断する」
「6層のデータを一部、お見せします。その後、返答をください」
「それでいい」
リーセは手帳を開いた。
今度は情報が書いてある手帳だった。小さい字で、びっしりと数字と記号が並んでいた。
「6層の縦穴配置図と、突風の発生周期データです。過去十年で記録されたサンプルが423件あります」
俺は手帳を受け取った。
数字を見た。
聞き取りで集めた情報と、重なる部分がある。ただ、量が違う。三人から聞いた話は「そういう傾向がある」という話だ。このデータは「423件の記録から導き出した確率分布」だ。
精度が、まるで違う。
俺は手帳を返した。
「取引に応じる」
リーセが頷いた。
表情は変わらなかった。ただ、肩にかかっていた力が少しだけ抜けた。体重が右足から均等に戻った。
気づいた。
この女も、この取引に賭けていた。
「一つだけ聞いていいか」
「はい」
「なぜ俺を排除しようとしない。上層部に従えば、その方が簡単だ」
リーセは少し間を置いた。
中庭に、また風が吹いた。
「あなたの攻略を三層分見て——」
言いかけて、止まった。
また口を開いた。
「計算蟲より正確な予測を出す人間を、排除するのは勿体ないと思いました」
「勿体ない」
「はい」
感情のない声だった。ただ——俺には、その言葉の裏に何か別のものがある気がした。
確認する方法はない。今は。
「次の連絡はどうする」
「ギルドで会えます。毎朝、帰還記録の確認で来ています」
「わかった」
俺は中庭を出た。
角を曲がったところで、ガルドが壁にもたれて待っていた。
「なんの話だった?」
「取引だ」
「神殿と?」
「神殿の管理人と。個人的な取引だ」
「大丈夫なの?」
俺は少し歩きながら考えた。
「大丈夫かどうかは、まだわからない」
「怖くない?」
「怖いというより——」
俺は足を止めた。
「計算が増えた」
「計算が増えたら大変じゃない?」
「俺には計算できる方が楽だ、と言っただろ」
「あ、そっか」
ガルドは少しの間考えてから、また歩き出した。
「あの人さ」
「リーセか」
「うん。なんか——すごいな、と思った」
「何が」
「俺にはわかんないことをやってる感じ。お前と似てる」
俺は答えなかった。
似ている、かどうか。
リーセは神殿のデータを持っていて、独断で動いていて、自分の判断に賭けていた。感情を見せない女だが、体重が右足に偏る程度には緊張していた。
似ているかどうかは、まだわからない。
ただ——使える。
そう判断した。
夜、宿で紙を並べた。
リーセから見た6層のデータ。聞き取りで集めた三人分の証言。ガルドの「首の後ろがぞわっとする」という感覚。
三つを重ねると、突風の発生パターンがかなり見えてきた。
縦穴ごとに周期が違う。周期の短い穴と長い穴がある。短い穴の近くは常に危険で、長い穴の近くには安全な停滞ポイントがある。十字路は全方向から短い穴の突風が来るから、通過は必ず停滞ポイントから次の停滞ポイントへの最短経路で動く必要がある。
そして——途中退避の場所も、設計できる。
六層の中盤、大きな縦穴の前で止まる。《命運読み》が弾く魔物の数値を水晶球の観客に見せながら、「ここで無理だ」という状況を演出する。実際には退避ルートを確保してあるから、安全に出られる。
観客は「やっぱり限界だった」と思う。
次のオッズが上がる。
そこに賭けてもらって——本番でクリアする。
俺は紙の上に数字を並べた。想定オッズ。想定配当。協力者への分配。次の挑戦への資金。
数字が綺麗に並んだ。
計算が揃った瞬間というのは、静かな気持ちになる。怖いとか楽しいとかではない。ただ、揃った、という感覚だ。
一枚の紙を横に出して、書いた。
リーセ・ヴァルト:取引成立。6層データ受領。——警戒は続ける。
それから、別の紙に。
6層:二段階攻略。第一回——途中退避演出。第二回——クリア。
窓の外で、夜風が吹いた。
松明の光が揺れて、紙の上の数字が一瞬ぶれた。
すぐ戻った。
数字は、揺れない。




