第7話「2.3倍」
靴屋は市場の裏通りにあった。
表通りの石畳より狭くて、荷馬車が通れない路地だ。昼過ぎの光が建物の隙間から斜めに落ちて、乾いた土の上に細長い影を作っている。どこかで魚を焼く匂いがした。腹が鳴った。靴より先に飯にすべきだったかもしれない。
「ここだ」
ガルドが木の扉を押した。蝶番が鈍い音を立てた。
中は薄暗かった。革の匂いがした。棚に靴が並んでいて、奥に作業台がある。老人が座って、靴底を縫っていた。顔を上げて、俺の足元を見て、それからガルドの顔を見た。
「知り合いか」
「まあ」とガルドが答えた。
「変色してる。酸か」
「毒沼だ」と俺が答えた。
老人は立ち上がって、俺の左足をじっと見た。しゃがんで、靴底の端を指で押した。
「まだ履けるが、あと二回入ったら底が抜ける」
「新しいものを」
「サイズは」
俺がサイズを言うと、老人は棚を一度見てから奥に引っ込んだ。
ガルドが隣の棚に並んでいる靴を指でつついていた。興味があるのかないのかわからない触り方だ。
「なあ」
「なんだ」
「今日のクリア、生存率いくつだったの」
「68%だ」
「想定は?」
「62%」
「上がったじゃん」
「そうだ」
「俺が入ったから?」
俺は少し間を置いた。
「それが一因だ」
「一因、って他にもあるの?」
「硫黄の使い方が想定より上手くいった。ガルドの早踏みが誤差ではなく変数として機能した。二つが重なって上がった」
「変数って、計算に入ったってこと?」
「入った」
「俺、計算に入ったの?」
ガルドが振り返った。少し目が丸くなっていた。
「今回は」
「今回は、ってことは次は?」
「次も入れるかどうかはまだわからない。今回の一例では判断できない」
「じゃあまた一緒に入ろう」
「サンプルを増やすためか」
「違う。俺が一緒に入りたいから」
俺は答えなかった。
老人が奥から戻ってきた。厚底の、革が硬そうな靴を持っていた。
「毒沼用に仕込みを入れてある。底が二重になってる」
「いくらだ」
「銀貨12枚」
値段を聞いた瞬間、ガルドが「じゃあ6枚ずつ」と言った。
「俺が払う」
「半分ずつって言った」
「そんな約束はしていない」
「してた」
「していない」
「路地で言った。『半分ずつ』って」
「靴一足に半分の概念はないと言った」
「でも俺が言い張ったから有効だろ」
老人が俺たちを交互に見て、それから作業台に戻った。関わらない、という顔だった。
俺は財布を出した。
「12枚払う」
「じゃあ俺が6枚出すから合わせて18枚になる」
「12枚でいい」
「余分に6枚出すだけだから店的には嬉しいだろ」
「俺が困る」
「なんで」
「貸しが増える」
ガルドが少し止まった。
「貸しって思うの? 俺は別にそういうつもりじゃないけど」
「俺がそう思う」
「損得で全部考えるんだな、お前」
「そうだ」
「……疲れない?」
俺は銀貨を数えながら答えた。
「疲れない。計算できる方が楽だ」
「計算できない方が楽なこともあるけどな」
「そうかもしれない」
「そうかもしれない、って認めるんだ」
「可能性は否定しない」
ガルドはそれを聞いて、何か言いかけてやめた。その代わり、少し笑った。肩は揺れなかった。ただ、口の端が上がった。
俺は銀貨を12枚、老人の前に置いた。
ギルドに寄ったのは、報酬の確認のためだ。
5層クリアの配当が今日の昼過ぎに確定するはずだった。アネットがカウンター越しに帳簿を確認して、少し顔を強張らせた。
「……片瀬司様の5層クリア配当、確定しています」
「いくらだ」
「基本報酬が銀貨20枚、配当の取り分が——」
アネットが数字を言った。
俺は計算した。
悪くない金額だった。ただ、それより気になったのは別のことだ。
「次回の俺のオッズは」
アネットが一瞬だけ視線を落とした。
「……本日付けで更新されています。2.3倍です」
2.3倍。
1話が1.2倍から始まって、2話で8.4倍に跳ね上がった。そこから4層、5層とクリアするたびに下がってきた。2.3倍は、俺が「弱い」と見られなくなってきたということだ。
番狂わせを起こし続けた結果、俺のオッズが市場に織り込まれ始めている。
「わかった」
カードと報酬を受け取って、カウンターを離れた。
ガルドが外で待っていた。石壁にもたれて、目を閉じている。立ったまま寝ている。
「オッズ、いくつになった?」
目を閉じたまま聞いてきた。
「2.3倍だ」
「下がったな」
「そうだ」
「困るの?」
俺は歩きながら考えた。
「困る、というより——計画を変える必要がある」
「どう変えるの」
「2.3倍のままクリアを続けても、俺に賭けた協力者への配当が薄くなる。次の一手でオッズを動かさないといけない」
「動かすって、下げるの? 上げるの?」
「上げる。一度大きく番狂わせを演じて、また『弱い』と思わせる」
「負けるってこと?」
「負けるのではなく、負けたように見せる」
ガルドが目を開けた。
「それ、できるの?」
「6層でやる」
「6層、俺も入っていい?」
「今は考えていない」
「考えといてくれ」
「考える」
ガルドはそれで満足したらしく、また目を閉じた。閉じながら歩いている。よく転ばないと思う。
夕方、宿に戻る前に、ギルドの前の広場を通った。
そこに、女が立っていた。
見覚えがあった。
水晶球の前でいつも座っている。神殿のバッジをつけている。年齢は俺より若い。18か19か。灰色の制服で、髪を後ろで一つに束ねている。表情がない、というより、表情を作っていない顔だ。
《命運読み》が弾いた。
[賭博神殿管理人 生存率:97% 脅威度:C ——警戒——]
警戒。
端に滲む情報が出た。この女は俺を警戒している。そして——俺を待っていた。
足を止めなかった。そのまま歩いた。
女が一歩前に出た。
「片瀬司さん」
名前を知っている。当然だ。神殿の管理人なら、俺のデータは全部持っている。
「そうだ」
「少しお時間をいただけますか。神殿の者です」
俺は立ち止まった。
後ろでガルドが足を止める気配がした。
「用件は」
「オッズの確認と、いくつかお伺いしたいことがあります」
淡々とした声だった。怒っているわけでも、脅しているわけでもない。ただ、事務的に用件を告げている。
《命運読み》がもう一度弾いた。
[賭博神殿管理人 生存率:97% 脅威度:C ——警戒—— ——観察——]
観察。
警戒と、観察。この女は俺を排除しようとしているのではない。観察している。
「名前は」
俺が聞くと、女は少し間を置いた。一秒。
「リーセ・ヴァルトです。神殿の管理主任を務めています」
「管理主任」
「はい」
「最年少だろ」
今度は間が少し長かった。二秒。
「……そうです」
「どこで話す」
「ここで構いません。長くはかかりません」
広場の石畳に、夕陽が横から差し込んでいた。リーセの影が細長く伸びている。風が吹いて、束ねた髪の端が揺れた。揺れたのに、顔が動かなかった。
「聞く」
リーセは小さな手帳を開いた。
「3層から5層まで、連続してオッズを大幅に上回るクリアが続いています。神殿の規定では、三連続のオッズ外しが確認された場合、管理人による聴取を行うことになっています」
「それがこれか」
「はい。正式な聴取ではありません。事前の確認です」
「何を確認したい」
「クリアの方法についてです」
俺は少し考えた。
隠す必要はない。隠したら、かえって不自然だ。
「情報収集と、《命運読み》の応用だ」
「情報収集の具体的な内容を教えていただけますか」
「帰還した冒険者から聞き取りをしている。各層の地形、魔物の習性、トラップの位置。それをもとに攻略ルートを組む」
「それで、計算蟲の算出値を上回る結果を出している」
「計算蟲が参照していない変数を使っているだけだ」
リーセの手帳を持つ手が、一瞬止まった。
俺は続けた。
「計算蟲は何を参照して生存率を出す? おそらく過去の攻略記録と、冒険者のステータスだ。だが聞き取りで得た個別の情報——その日の魔物の位置、前日の攻略者が残した痕跡、気温による魔物の活性度の変化——そういうものは参照していない。俺はそこを使っている」
しばらく沈黙があった。
広場に風が吹いた。どこかの店の看板が、きい、と揺れた。
「……つまり」
リーセが口を開いた。声が少し低くなった。
「あなたは、計算蟲の盲点を体系的に突いている」
「そういうことになる」
「それは——」
リーセが一度、口を閉じた。
また開いた。
「不正ではありません。規定の範囲内です」
「知っている」
「ただ——」
「調査は続ける、ということだろ」
リーセが俺を見た。
初めて、まっすぐ目が合った。灰色の目だった。感情が読めない。ただ、何かを計算している目だ。
「はい。観察を続けます」
「好きにしろ」
俺は歩き出した。
二歩進んで、リーセが後ろから言った。
「片瀬司さん」
振り返らなかった。
「次の層も、同じ方法でいくつもりですか」
俺は歩きながら答えた。
「毎回同じ方法は使わない。数字は嘘をつかないが、同じ手は二度は通じない」
返事はなかった。
ガルドが横に並んできた。小声で言った。
「あれ、神殿の人?」
「そうだ」
「怖くなかった?」
「怖くはない」
「なんか睨んでたけど」
「観察していた」
「同じじゃない?」
俺は少し考えた。
「違う」
「どう違うの」
「睨むのは排除するためだ。観察するのは理解するためだ」
「……あの人、お前を理解しようとしてるってこと?」
俺は答えなかった。
ただ、頭の中に書き込んだ。
リーセ・ヴァルト。管理主任。最年少。警戒と観察が同時に出た。——計算できる相手かもしれない。
夕陽が石畳を赤く染めていた。
影が長く伸びて、路地の角まで届いていた。
宿に戻って、6層の情報収集をどこから始めるか考えた。
2.3倍のオッズ。連続クリアで市場に俺が織り込まれ始めている。次は「負けたように見せる」必要がある。
ただ——それをやれば、神殿の調査が本格化する。
リーセ・ヴァルトが、もっと近くに来る。
紙に書いた。
6層:情報収集開始。並行して、意図的な誤差の設計を考える。
それから、もう一行。
リーセ・ヴァルト:観察対象に追加。
窓の外で、夜市の明かりが灯り始めた。




